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「では、あなたがこれを読み終えるまでお貸しするというのはどうでしょうか。どうせ、私たちはこの会談が生活の一部になってしまっていますから、返すときにも手間取ることなどないでしょう。ああ、もちろん、私はあなたをもしものことなど起こさない人だと思っていますし、仮にそんなことがあったとして、弁償などと無粋なことを言い出しませんよ。
実はこの本はオペラや演劇に関するものでしてね、あなたにぴったりの本なのですよ。実際の演目に加えて、少々奇抜な理論なども扱っているのです。まあ、作者が自殺しているいわくつきでもありますが、そういったところもあなたの趣向に合うでしょう。ああそうだ! 文化祭があると言っていましたね。どうです? ここはひとつ、この本を活用してみては。普通では決して出せない趣のある演劇になると思いますよ。
少々古い英語で書かれているので、あなたの年だと初めは読むのに苦労が絶えないでしょうが、なに、心配することはありませんよ。直ぐにすらすらと紐解けるようになりますから」
常に穏やかな、しかし、熱を持っていく男の言葉は、古書の虜となりつつある私から、思考という行為を忘れ去らせてしまった。
男に促されるままに本を受け取り、しっかりとした足取りの男と対照的に、夢遊病患者さながらの足取りで男について店を出た。
いつも別れる場所で、別れの挨拶もそこそこに帰ろうとする私の背中に、思い出したような男の声が降りかかった。
「ああそうそう、大変申し訳ないのですが、私のミスでページの端がインクでくっついてしまっているページがあります。そのままでは読めないので強引にでもいいので剥がしてしまってください。心配しなくとも本当にページの端ですから、古書と言っても破れるようなことはないですよ」
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