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一、 十文字
「三郎、起きなさい。もう朝ですよ」
障子戸越しに母の声。
三郎は重いまぶたを開けた。
畳二枚の物置同然な部屋、ここで寝るようになって十年が過ぎた。
井戸で顔をすすいだ。冷たい水で、肌が痛いほど。その足で居間へ。
「おはようございます」
小声で戸を開け、入った。
父と二人の兄が待っていた。三郎の膳も置かれている。
じろり、皆の目が厳しい。
三郎だけが異形だった。ひげは伸び、髷は崩れている。
「三郎、喰いながら聞け」
父が言い、朝食が始まった。
「岡田様より、婿のお話が来た」
「むこ・・・ですか」
武家によらず、三男坊ともなれば、どこも処遇に困るもの。まして、坂下家は下級の貧乏武家で、三郎は無役の部屋住みだ。
本来ならば、婿入りの話は喜ぶべき事のはず。しかし、父の顔は渋い。
「岡田様・・・岡田実継様の家には嫡男がおられたが、先月、病でな。娘があるので、早急に跡取りの婿を探している」
「おかだ、さねつぐ・・・」
三郎は名を聞き、首を傾げた。思い当たらない。もとより、人の名と顔を覚えるのは得意ではない。
「岡田様は、家のお役目が・・・アレなので、わしから行けとは言わぬ。おまえが決めろ」
「わたしが?」
武家の縁談は、総じて、本人に決定権が無い。親同士が、あるいは上からの命令で決まる。
「今日、岡田様は上郷の本多屋敷で仕事をなさる。行けば、会える。会って、婿となるかならぬか、決めるが良い」
「今日・・・ですか」
三郎は飯を食べながら、また首をひねった。
二十歳になった武家の三男坊。縁談など、自分には縁の無い事と思っていた。
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