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五、 介錯指南
稲葉篤則が二年ぶりにお国入り。夏の入り口だった。
それに合わせ、三郎は故郷に帰って来た。江戸へ上がる時は岡田の婿として。今は岡田の当主として、家に入った。
「お帰りなさいませ」
妻の美津が、妾の美和が頭を下げた。義父と義母にも頭を下げられ、気恥ずかしく感じた。
江戸では、仮に岡田実継として通したが、ここでは義父が実継だ。三郎は実種の名にもどる。
小太郎と美々は大きくなり、木元の男の子と三人でにぎやかだ。義父は孫に囲まれ、すっかり好々爺と化している。
午前中は城に勤め、午後は田畑で汗を流す。夜は、妻と子作り。忙しいが、充実した毎日。
そして秋、美和に兆しが来た。今度こそ、と女の顔に気合いが満ちる。
「婿殿、頼みがある。殿にお目通りをしたい」
義父が言った。
その翌日、三郎は義父と登城する。
家を出る時、義父は見送る義母と娘の美津に深々と礼をした。年寄りのする事は、時に妙なものと思った。
「おお、爺よ、久しいな」
主君、稲葉篤則は上機嫌で迎えてくれた。
南蛮渡来の金平糖を茶が共にある、江戸でおぼえた味だ。すこぶるな午後。
「おかげさまで、家はすこやかです。娘には、年明けに新たな子が産まれます」
実継は深々と一礼し、口を一文字にして顔を上げた。
「殿におたずねしたき事があります。江戸で、腹を切るお許しをいただきました。その後、何時の沙汰がありません」
一瞬、場の空気が凍り付いた。稲葉は三郎を見て、歯ぎしり。すっかり忘れていた事である。
三郎も息を呑んだ。忘れていなかったのか、と腹がしびれた。
「わしは爺に切腹を許した。それは確かだ。で、何時したいのだ」
「もしも、お許し願えますれば、今日、そこの庭で」
茶坊主の手から茶碗が落ちた。
沈黙の時が流れた。
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