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「では、お許しを頂いた、と言う事で」
実継は立ち上がり、縁側から庭に降りた。羽織を脱いで、地面に敷き、その上に座る。
「できますれば、介錯を婿に願いたい」
実継の声。稲葉は小さく頷く。
三郎は庭に降り、義父の左後ろに片膝で腰をおろした。稲葉が肘掛けを持って縁側に座る。
「爺、わしは切腹を許した。が、命じてはおらぬ。気が変わるのも許す」
実継は笑顔を返し、また深々と一礼した。
右手に置いた大小から、脇差しを抜き、後頭部に持って行く。髷をつかみ、元結いを切った。
三郎は義父から遺髪を受け取り、懐に入れた。まさか、とまだ信じられずにいた。
実継は帯をゆるめ、襟を下へ開く。へそを出して、ぽん、とたたいた。
脇差しの刃先を左脇腹に当てた。一度二度、ゆっくり息をして気を整える。
ざざっ、三郎の膝が震え、つま先が滑った。
「音を出すな!」
実継ぐは脇差しを下ろし、振り向いて三郎を叱った。
「腹を切ろうと、せっかく溜めた気が散ってしまった。また、やり直しだ」
三郎は冷や汗で頭を垂れる。
改めて、実継は深呼吸をひとつ。脇差しの刃先を左脇腹に当てた。
かちゃちゃ、三郎の手が大刀の鯉口を鳴らした。
ぎり、実継は歯ぎしり。手で待ったの合図をし、脇差しを置いた。
稲葉は肘掛けを抱き、声を殺して笑った。
「この場の主役は切腹人である。介錯人は脇役として、存在する事さえ意識される必要は無い。風のごとく、空の雲のごとく、この庭の事物と一体になるのだ。切腹人が心静かに腹を切る、そういう空気となれるのが、良き介錯人である」
言い終わると、実継は脇差しを持ち、また深呼吸した。
木村藤兵衛と賢五の父子が庭の隅に現れた。静かに腰を下ろし、事を見守る。
やる気を無くしてくれたら、と三郎は願った。
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