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 いまや、私の心臓は痛いほどに早鐘を打ち、カンカン、カンカンと、人間が平穏に生きていくために決して思い至ってはならない事実、触れてはならない禁断の知識への抵抗を顕わにしていた。  しかし、流れる水が下から上に流れることはないように、移ろう時が巻き戻ることはないように、一度生じた邪悪なる奔流は、堰き止められることなく、真実という名の悍ましい怪物を私の眼前に引き摺り出した。  私があの日、行動をともにしていた「この」火野は私と梶村とともに笑いあった「あの」火野ではなく、人知の及ぶことのない、いわば「神話的な存在」だった。  私は気がついたのだ。  「この」火野と初めて邂逅を果たした、あの平凡なファストフード店の駐車場。そこで思いつくにはあまりにもそぐわない、荒唐無稽にさえ思えたあの確信は、決して間違ってはいなかったのだと。  「この」火野と梶村夫妻の家に向かっていた車の中で、私が抱いたあの強烈な衝動。あれは、全ての動物の本能に根ざす最も原初的な行動。本能の削ぎ落とされた人間という生物種が滅多に体感することのない、自らにとって未知なるものを排斥しようとする、自己防衛の現れだったのだと。  そして、これらの事実はこの世界における恐るべき神話的存在の証明であり、それこそが私の眼前に引き摺り出された悍ましい真実に他ならなかった。  スーツの男は未だに私の様子に気がつくことなく、警告めいたことを口にしていたが、その声は潮騒のように遠かった。  私はかつてないほどに口を開き、声にならない絶叫を上げた。グルグルと渦を巻き、明滅する天井が見えたのを最後に、私の意識は再び、一切の光明も届かない昏い水底へと沈んでいった。
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