29 この黒猫は懐かない

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 クライミングをしていた時は家の要望もあって、マスメディアへの露出はそのジャンルのスポーツとしては多かったほうだと思う。いい宣伝になるからさ、「わが家」の。だから、俺のことを見て覚えている人も少なからずいるとは思う。アキさんもそうなのかもしれないと、慌てて、前髪で目元を覆い隠しながら、その場を走って逃げた。  だから、気がつかなかった。 「おっと」 「っ!」  前から歩いてくる人に気がつかなかった。 「っとっと」  体当たりの正面衝突。  元、だけれど、それでもアスリートだった俺は、アキさんみたいに細くはない。それなのに、そんな俺が体当たりしてもビクともしない人なんて。 「……危ない。大丈夫だったかい?」 「!」  そんな人って、いるんだ。 「気をつけないと」 「あ、えっと……すいません」  久瀬さん、くらい、身長あるかな。でかい。けど、久瀬さんと違って、笑顔が、すごく、社交辞令じみてる。 「あれ? 菅尾(すがお)さんだぁ」 「やぁ、アキちゃん」  知り、合い? なのか? アキさんと、この紳士。  その、菅尾さんと呼ばれていた人は体当たりしたくせによろけた俺を抱きかかえて起こして、アキさんと談笑し始めた。  お客、さん?  にこやかに笑って、アキさんから視線がこっちに移った。こっちをちらりと見て、目を細め微笑みながら、小さくお辞儀をしてくれた。それはとても優しげに思えるけれど、でも身構えた。  堀が深くて、目鼻立ちがしっかりした整った顔に、憮然とした物腰、上流を思わせる綺麗な言葉使い。  あの家と、同じ匂いがする気がして身体が強張った。黒猫になる前にいた、あの家と同じ匂いがした。
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