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風呂掃除の仕方が上手になった。料理は昨日、初めてオムレツの奥深さを実感した。ホテルで出てくるような、トロトロふわふわなオムレツはまだ作れそうにない。
久瀬さんは日中よく執筆している。書斎とかじゃなくて、ワンルームの真ん中、小さなテーブルがあって、そこにタブレットを置いて、胡坐をかきながら書いてる。俺はそんな久瀬さんの邪魔にならないように家事をしてみたり、執筆する背中を見ていようと、背後にあるソファーに座ってコーヒーを飲んでみたり。
昨日もそんなふうに大きな背中を見つめてたら、笑われた。
本当に猫みたいに足音とかしないなって。そして、あの人の笑った顔に何かがふわりと浮き上がる。
俺が、久瀬さんに拾ってもらってから五日経った。
つまり、俺があの家に帰らなくなって五日が過ぎたことになる。捜索願いなんてことは、何があってもしないと思うし、オリンピック選考から零れたことは主治医から連絡がいくだろう。そうなれば、もう用はないだろうから、あとはお好きにどーぞってわけ。
笑っちゃうけどさ。
今、あそこの家の人間でよかったって、初めて思ったよ。要らない人間には固執しないでいてくれることに。
あぁ、でも、そろそろ、追い出される、かな。
――何か、思い出したか?
そう、今日はまだ訊かれなかった。いや、昨日も、一回も訊かれてないかもしれない。嘘ついてるってバレた? それとも、記憶が戻らないんじゃないだろうかって、だったら早く出てってくれって、思ってる?
「おーい、クロ」
「! は、はいっ」
「あぁ、ここにいたのか。後ろにいると思ったのに、いないから」
「あ、うん」
キッチンで夕飯の用意をしようかなって思ったところだった。調味料がなくなりかけてて、ストックがどこかにあるかか探してたんだ。探しながら、このまま本当に家政婦にでもなれたいいのにって、思った。
「……なぁ、クロ」
ねぇ、俺。
「……散歩、いこっか」
「……え?」
「ちょっと、そこまで」
なぁ、クロ……お前、本当に記憶喪失? そう言われるのかと思った俺はやたらと身構えてて、散歩、ってだけなのに、きっとものすごく嬉しそうな顔をしてしまったんだ。あんたは俺を見て、目を丸くして、そして笑った。笑って、猫を可愛がるように俺の顎のところをくすぐってくれた。
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