1 黒猫

5/5
前へ
/374ページ
次へ
「それ、綺麗な色だな」 「……え?」 「カラコンか? 眼」  眼? あぁ、これのことか。 「……あ、いえ……」 「……ふーん」 「す、すんませんでした」 「なぁ」  久瀬さん、の、横を通り過ぎようとしたら、甘い香りがした。甘いブランデーの香りに混ざる、人工的な香り。女がつけてそうな香水の香り。 「交番、行くの?」 「……」 「なんか、訳ありなんか?」  猫、だったらよかったのに。そしたら、あんたに拾ってもらえたかもしれない。猫だったら、抱き上げて、その懐に。そして、俺は俺としてじゃなく、あんたの猫として。 「名前は?」 「……」 「何か住所わかるものあるか? あれば、タクシー代くらいやるよ」 「……」  俺は今日、全部真っ黒になったから、それならいっそ、視界だけじゃなく全身が真っ黒になってくれたらって。名前もなんもかんも黒で塗り潰してしまえたらって。 「ん? 名前」  わかってる。そんなの無理だって。ありえないってわかってる。わかってるけど。 「名前……わからない」 「え?」  俺の中にある、もういらないものを全部を道端に捨ててさ。この身ひとつになったら、あんたに、あの時拾われた黒猫みたいに、拾ってもらえたりしないかなって、神様にも笑わせそうな願いを持ったんだ。 「わからない、ん、です……」 「……」  全部捨てる。何もかも、だから、代わりに、俺をあの時の黒猫にしてくださいって願ったんだ。 「名前、も、全部。けどっ」 「……とりあえず」  なんて、ありえるわけない。笑えるだろ? 神様なんていないのに、声をかけてくれたこの人がたまらなく優しかったから、ついさ。 「その、もうここどくんで」 「ちょ、おいおい」  この大きな手でも、人間は抱き上げてはもらえないってわかってるけど。でも――。 「すいませ」 「とりあえず、うちでコーヒーでも飲んでけば? いいぜ?」 「……え?」 「お前、どんだけここにいたのか知らないけど、手、氷みたいに冷たいぞ。駅前の交番まで、歩いて三十分、その薄着で歩かせるっつうのは、さすがに罪悪感がな」  この人に、拾って、欲しかった。 「うち、ここのマンションだ」  神様も大爆笑。冗談にもならない願いだけど、たしかに、俺は願って、ここでこの人を待っていた。
/374ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4389人が本棚に入れています
本棚に追加