4389人が本棚に入れています
本棚に追加
「それ、綺麗な色だな」
「……え?」
「カラコンか? 眼」
眼? あぁ、これのことか。
「……あ、いえ……」
「……ふーん」
「す、すんませんでした」
「なぁ」
久瀬さん、の、横を通り過ぎようとしたら、甘い香りがした。甘いブランデーの香りに混ざる、人工的な香り。女がつけてそうな香水の香り。
「交番、行くの?」
「……」
「なんか、訳ありなんか?」
猫、だったらよかったのに。そしたら、あんたに拾ってもらえたかもしれない。猫だったら、抱き上げて、その懐に。そして、俺は俺としてじゃなく、あんたの猫として。
「名前は?」
「……」
「何か住所わかるものあるか? あれば、タクシー代くらいやるよ」
「……」
俺は今日、全部真っ黒になったから、それならいっそ、視界だけじゃなく全身が真っ黒になってくれたらって。名前もなんもかんも黒で塗り潰してしまえたらって。
「ん? 名前」
わかってる。そんなの無理だって。ありえないってわかってる。わかってるけど。
「名前……わからない」
「え?」
俺の中にある、もういらないものを全部を道端に捨ててさ。この身ひとつになったら、あんたに、あの時拾われた黒猫みたいに、拾ってもらえたりしないかなって、神様にも笑わせそうな願いを持ったんだ。
「わからない、ん、です……」
「……」
全部捨てる。何もかも、だから、代わりに、俺をあの時の黒猫にしてくださいって願ったんだ。
「名前、も、全部。けどっ」
「……とりあえず」
なんて、ありえるわけない。笑えるだろ? 神様なんていないのに、声をかけてくれたこの人がたまらなく優しかったから、ついさ。
「その、もうここどくんで」
「ちょ、おいおい」
この大きな手でも、人間は抱き上げてはもらえないってわかってるけど。でも――。
「すいませ」
「とりあえず、うちでコーヒーでも飲んでけば? いいぜ?」
「……え?」
「お前、どんだけここにいたのか知らないけど、手、氷みたいに冷たいぞ。駅前の交番まで、歩いて三十分、その薄着で歩かせるっつうのは、さすがに罪悪感がな」
この人に、拾って、欲しかった。
「うち、ここのマンションだ」
神様も大爆笑。冗談にもならない願いだけど、たしかに、俺は願って、ここでこの人を待っていた。
最初のコメントを投稿しよう!