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「あ……りがとう、ございます」
おう、って返事をしてそのシルエットは消えてしまった。
低い声が優しくて、俺は、この柔らかくあったかい湯船以上にその声に身体の芯まで温まる。
俺は、クライミングの選手だった。
そう、もう過去形だ。数日前、この肩じゃあ今までどおりのクライミングはできないと言われたから。治療とリハビリをすればいつかは肩のコンディションが戻るだろうけど、今すぐには無理。オリンピックの選考を兼ねている次の大会に出られないのなら、もうこの肩に用はない。
もう、俺は、家族、いや、あの家の人間にとって用のない奴だから、家を出た。
そして、久瀬さんの住んでるとこ知ってた俺は、待ってた。
つい、記憶がないふりをした。そしたらさ、なんもない可哀想なガキっていうふうにしたら、あんたが拾ってくれるかもしれないって思ったんだ。みすぼらしい黒猫みたいに、うずくまってたら。
「あ、あの、お風呂、ありがとうございました」
「おー、いいよ。別に」
「あの」
記憶も何も失くしてしまった、途方に暮れている哀れなガキってことにしたらさ。陳腐だけれど、陳腐すぎて信じてくれるかもしれないだろ?
そんな嘘をつく奴はいないって。
「っぷ、サイズ合ってねぇ」
「!」
俺は、貴方がすごく優しい人だって知ってるから。
「お前、チビってわけでもないのに、わりぃな、俺がバカデカイんだわ。そんなのしかなくて申し訳ねぇけど」
「あ、いえ!」
ゴミ、と間違えわれて回収車に放り込まれても抵抗すらできなかっただろう黒猫を優しく抱き上げる人だって知ってたから、付け込んだ。
ホント、母親にそっくりだよ。
ホステスをしていた母が金持ちの親父に取り入って、愛人だろうとなんだろうと、必死に子ども作って、後妻の後釜にしがみついたみたいに図々しい。
「あの、洗って返します」
「って、お前、思い出したの?」
でも、記憶を心底なくしたかったから、消せるものなら消したいよ。あの家のことを丸ごと消去できるのなら、自分の名前もいらない。
「……いえ」
「まったく思い出せないのか?」
「……はい」
いらない。家族も、友人も、この肩だって、もう必要ない。
「そりゃ、不安だろ?」
「……」
「気がついたら、あそこにいたのか?」
「……はい」
「頭は? どっか、痛まないか?」
「……いえ」
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