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ふるふると横に振った。久瀬さんはひとつ溜め息をついて、重たそうにソファから立ち上がると、ひとつにまとめて縛った髪をその大きな手でわしわしと掻きながら、キッチンへと向かう。
それを、視界の端で見つめてた。
もしも病院へ行けと言われたら、そこでお礼を言って帰ろう。あのうちに帰って、そんで、きっとしばらくしたら本当に追い出されるだろうから、その時、この服を持って、改めてお礼をしよう。
「ほら、コーヒー」
「……え?」
「飲めないか? コーヒー苦手なら、お茶」
「あ、いえ! そうじゃなくてっ」
そして、あの家も、なんもかんも消えたことにして、ひとりでやっていこう。
いらない。
記憶も、過去の経歴も、そして。
「あの、コーヒー……」
「しばらく」
「……え?」
この人を傷つけた、あの家のことなんて、いらない。だから、全部、捨てよう。
「しばらく、いてもいいぜ?」
「……」
「記憶、戻るまで、でも、いいし。お前がいたいだけ、いていい」
この人を傷つけた、あいつらのことなんて。
「……ぇ」
「俺は、かまわないよ」
ごめんなさい。
貴方の大事なものを、あいつらが盗んだの、知ってるんだ。貴方が頑張って書いた小説を盗んでしまったこと、知っています。俺の兄が、盗んだって。
『いやぁ、ネタはいいんだけどさぁ。どうにも見てくれがねぇ。あれじゃ広告したって無理だわ。だから、新人でいただろ? イケメンのモデル、小説家に華麗に転身。あいつにこのネタ振ろうと思う。うん。そう。そしたら、また業績上がるでしょ、アハハ』
父親不在の夕食会、遅れて来た兄がそんな電話をまた別の兄としていたのを聞いた。
『久瀬成彦っていう作家の卵だよ』
ごめんなさい。久瀬さん。貴方から兄が小説を盗んでしまったことを、俺は盗み聞きして、知っていたんだ。
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