第1章

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 雨に打たれて、女の長い髪はばさばさに乱れていた。こんなに肌寒いのに、そでなしのワンピースみたいな服一枚だ。でも服なんてどうでもいい。  「!」  あたしは声もなく固まる。  女の右手が鈍く光った。そして、その手首をつかんでひねり上げたのは、金髪のコートの男……ひぐっちゃんだ。  ぽろり、と女の手から鈍く光ったものが落ちる。  包丁だった。  「くそぅ、くそう」  女はわめいて、もう一方の手でひぐっちゃんのお腹や胸をごんごん殴りだす。  「放せ、放せー」  ひぐっちゃんはサングラスをしていて、あたしのところからは表情はよくわからない。女の手首をしっかりにぎり、殴られてもびくともしなかった。  別の声が飛んだ。  「おかあさん!」  あたしはどこも動かせない。まばたきできたかどうかすらわからない。ただ、急に口の中が鉄の味だ。  駆けてきたのは、エースだった。泣いている。  「おかあさん、もうやめてよ」  女の背中につかまる。  「うう……ちくしょう……」  ようやく女は殴るのをやめた。ずるずる落ちてその場へ座りこむ。  「ちくしょう……ちくしょう……」  エースはいっしょにびちゃびちゃの地面に座りこんで、  「帰ろう、帰ろう、ね、おかあさん」  繰り返しささやく。  やがて、小さな子どもにするみたいに女の人を立たせ、抱えるように連れて行った。    エースたちが見えなくなってからも、ひぐっちゃんはしばらくじっと雨を見上げる。  だいぶたってから、ゆっくり動きだす。まず、落ちていた包丁を拾った。 ― ここにいちゃいけない。  そう思ったけど、あたしの体は動かない。  包丁を取り上げ体を起こしたとき、こっちに気づいた。  あたしにはずいぶん長い時間に思えたけど、目を合わせたのはきっと一瞬だ。  ひぐっちゃんは口の端をちょっと上げた。それは、急いでホームをかけてきたのに、目の前で電車のドアが閉まってしまった、みたいな笑い方だった。  いつもだってそれほどよく働くわけじゃないけど、あたしの頭はこの時はまったくもって何も考えられなかった。混乱していた。  だから、角から出て行って、  「あたしの友だちに何したの?」  って聞いた。自分で思い出しても驚くぐらい、ひどく冷たい言い方だった。  包丁を懐にしまい、ひぐっちゃんは両手をコートのポケットにつっこんだ。  「仕事だ」
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