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雨に打たれて、女の長い髪はばさばさに乱れていた。こんなに肌寒いのに、そでなしのワンピースみたいな服一枚だ。でも服なんてどうでもいい。
「!」
あたしは声もなく固まる。
女の右手が鈍く光った。そして、その手首をつかんでひねり上げたのは、金髪のコートの男……ひぐっちゃんだ。
ぽろり、と女の手から鈍く光ったものが落ちる。
包丁だった。
「くそぅ、くそう」
女はわめいて、もう一方の手でひぐっちゃんのお腹や胸をごんごん殴りだす。
「放せ、放せー」
ひぐっちゃんはサングラスをしていて、あたしのところからは表情はよくわからない。女の手首をしっかりにぎり、殴られてもびくともしなかった。
別の声が飛んだ。
「おかあさん!」
あたしはどこも動かせない。まばたきできたかどうかすらわからない。ただ、急に口の中が鉄の味だ。
駆けてきたのは、エースだった。泣いている。
「おかあさん、もうやめてよ」
女の背中につかまる。
「うう……ちくしょう……」
ようやく女は殴るのをやめた。ずるずる落ちてその場へ座りこむ。
「ちくしょう……ちくしょう……」
エースはいっしょにびちゃびちゃの地面に座りこんで、
「帰ろう、帰ろう、ね、おかあさん」
繰り返しささやく。
やがて、小さな子どもにするみたいに女の人を立たせ、抱えるように連れて行った。
エースたちが見えなくなってからも、ひぐっちゃんはしばらくじっと雨を見上げる。
だいぶたってから、ゆっくり動きだす。まず、落ちていた包丁を拾った。
― ここにいちゃいけない。
そう思ったけど、あたしの体は動かない。
包丁を取り上げ体を起こしたとき、こっちに気づいた。
あたしにはずいぶん長い時間に思えたけど、目を合わせたのはきっと一瞬だ。
ひぐっちゃんは口の端をちょっと上げた。それは、急いでホームをかけてきたのに、目の前で電車のドアが閉まってしまった、みたいな笑い方だった。
いつもだってそれほどよく働くわけじゃないけど、あたしの頭はこの時はまったくもって何も考えられなかった。混乱していた。
だから、角から出て行って、
「あたしの友だちに何したの?」
って聞いた。自分で思い出しても驚くぐらい、ひどく冷たい言い方だった。
包丁を懐にしまい、ひぐっちゃんは両手をコートのポケットにつっこんだ。
「仕事だ」
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