第1章

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 「あと心配なのは、エースのうちの人か、ひぐっちゃんがすごく悪いことしてるのかもしれない、そうならとても怖いし、そう思ってしまう自分も怖い……ふたりのこと大好きなのに。現場にいたのひぐっちゃんに気づかれちゃって、あたしそこでひどく感じ悪いこといっちゃったし、なんであんな言い方したんだろう、ただ怖かったんだ。でもそんなことわかんないだろうし、謝りたい、でもその話題を持ち出したらかえって……あ」  両手で口をおさえたけど、遅い。  「そうか」  智春さんはにっこりあたしを見た。いつもの、漂白剤を入れてアイロンをかけたような笑い方じゃなかった。  「誰にも考えを言えないと苦しいよね、思いがこう、お腹の中で凝り固まっちゃったみたいな」  わやわやは相変わらずだけど、智春さんのいうことはわかる。  「うん、あたし苦しかった」  ぴょんと立ち上がって、手を差し出す。  「聞いてくれてありがとう、智春さん。だいぶ楽になった」  お世辞じゃなくて本当の気持ちだ。  あたし、自分が苦しかったこともよくわからなかった。それでため息ばっかりついてたんだ。それがわかって、すっとした。  「うん? 僕はなんの解決策も提示してない……」  首をかしげる智春さんの手を強引につかんで、ぶんぶん握手した。  そのまますとんと座って、  「さあて、食うぞ食うぞ」  あたしはご飯の残りにとりかかる。  お芋の煮っころがしも、カジキとほうれん草のバターソテーも、お豆腐となめこのおつゆも、きゅうりのお漬物も、とても丁寧に作ってある。おいしい。口の中に味がもどってきた。    ご飯のあと、お皿洗いを手伝った。  智春さんに「宿題は?」って聞かれたけど、あたしは「宿題はあるけど、お手伝いもする」っていった。  智春さんはちょっとあたしを見た。それから、さっきみたいににこっとする。  「ありがとう。じゃあ頼むよ」  またひとつあたしは山を越えた、気がする。     △  自分の部屋で、勉強机にかぶさってうんうん手こずっていると、ケータイが震えた。  耳に当て、真っ先にあたしは叫んだ。  「ねえ、なんでプラスが正でマイナスが負なの? 負の逆なら、勝ちの勝のほうがよくない? あと方程式って何の役に立つの?」  電話の向こうでひきつるような笑い声が起こる。 ― さては今数学やってるね、宿題?  ここんところ、こいつの声はいつもかすれている。
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