将軍の焦燥

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 無邪気に笑って自分を見上げる千織の肩に触れながら、視界の端に押しやり、見ようとしてこなかった事実が眼前に迫ってくるようだった。  正月の宣旨を待って、千織は自分に下賜されるはずだった。  けれどそれは、どこにも明文化されてはいない。  口頭での内諾だった。  もちろん、上王は高潔で視野の広い名君だと信頼を寄せている。  約束は守って下さる方だ、と。  解りながらも――  それでも一抹の不安が去らない。  戦を共にし、忠誠揺るぎないことは了解いただけているはずだが――上王はアガツ国の君主だった。  どんなことよりも、アガツ国の利益が全てにおいて優先される。  もし。  千織が実はトカナ王家のたった一人の生き残りだと上王が知れば――  決して戦の褒賞として、自分に下賜されることはないだろう。  寵童とならずとも、アガツ国の宮廷に秘め置かれ、諸国に対する切り札として使われることは想像に難くない。  その不安が兆したのは、貴透があまりにも用意周到に、千織を上王に献上しようとしていた事実を知ったからだった。  あの貴透だ。  当初の予定が狂ったからと言って、千織が将軍職の自分に下賜されるのを、拱手傍観(きょうしゅぼうかん)したままでいるだろうか。  貴透は策士だ。  あるいは――上王の手元に千織を留め置くために、実はトカナ王家の末裔だと内通者を通じて上奏しないとも限らない。そうなれば、聡明な上王はすぐに真実を暴き立てるだろう。  奇策を弄する貴透の存在が、不気味にのしかかってくるようだ。  千織の出自が上王に知られれば、確実に自分と千織は引き離される。  そしてトカナ王家の後嗣をもうけるため、千織は王族として望まぬ婚姻を強いられてしまう。  自由も愛も何もなく、代々の血の重みを背負いながら人の思惑に操られ続ける。  かつて自分が黒龍の主として、生きることを命じられた道を――千織に味わわせてしまう。  気付いた事実に胸を抉られた。  正月の宣旨までひと月と少し。  その間の状況いかんによっては、上王の胸一つで千織を伴侶とすることは叶わない。  こんなにも想っているのに――千織と自分を繋ぐものは、大国の思惑に左右される、もろく儚いものなのだと、不意に思い知らされる。    動揺を千織に悟られてはならない。  とっさに将軍は平静を保った。  だが。  久礼野の態度をきっかけとして、胸の奥にくすぶり始めた焦燥が身を焼く。  その苛立ちが、どこまでも尾を引いた。  千織の態度が夕餉の頃から急に沈んだのも気になった。  やはり久礼野が何か言ったのではないかと、危惧が再び湧き起ってくる。  千織は賢く思い遣りの深い子だ。  あの時はとっさに久礼野をかばったが、実は何かシヅマのことで問われていたのかもしれない。  自分に言えないようなことを、千織が抱え込んでしまうのが嫌だった。  
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