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ふと気付く。
それは自分も同じだ。
父にも民にも見捨てられた身を、将軍は蔑まずに慈しんでくれている。
だからこうやって、自分は笑っていられるのだ。
将軍に対する思慕が、痛いほど胸に迫った。
「どうした、千織?」
急に泣きそうな顔になったためか、将軍が問いかけてくる。
「いえ、何でもありません」
千織は無理矢理に笑顔になって将軍の危惧を吹き飛ばそうとした。
「将軍様がシヅマの街にお心を配って下さるのが、とても嬉しいです」
*
その日の夕餉は、武将たちと共にとった。
兄も街内の巡覧から戻り、同じ膳を囲む。
食事時、話題は千織が日向の弟子になったことでもちきりだった。
本当に、日向は今まで全く弟子を取らない人だったらしい。
話の中心になることは気恥ずかしいが、その日向に弟子と認めてもらったことがとても嬉しかった。
武将たちと囲む夕餉は、穏やかだった。
意外なことに益生之司の匡晃は、兄の横に座を占めてずっと親しげに話しをしていた。どうやら殺鼠剤のことについていろいろと語り合いたいようだった。
ごく自然に武将たちと接する兄の姿を目に映し、このまま自分たちが千獣部隊に身を置く未来を想像してみる。
彼らと一緒だったら――たとえ父や左今兄と戦うことになっても、勇気を振り絞って前を向いていけるかもしれない。
そんな風に考えてみる。
このシヅマの国は、アガツ国の前線基地になる。そうなれば、攻めてくる父たちの軍勢と必ず戦うこととなる。
今の穏やかな姿は一時的なものだと、きっと千獣部隊の誰もが解っている。
もし父たちがシヅマ奪還に動いたら。
千織は湯気を立てる食事を目に映しながらも、頭の中では全く違うことを考え続けていた。
自分の従える翠龍を皆の役に立てることは出来ないのだろうか。
将軍の黒龍だけでなく、翠龍もいればきっと軍勢を蹴散らすことが出来る。
シヅマの民たちが恐れて逃げてくれれば、あるいは――父たちと戦わなくても済むかもしれない。
胸がぎゅっと痛んだ。
翠龍のことを思うと、兄に聞かされた『トカナ王家の翠龍』という言葉が脳裏を巡る。消えない傷のように疑問がいつまでも胸をちくちくと刺した。
そんな内側の悩みを、誰にも気付かれないようにしていたつもりだったのに――
どうやら将軍はお見通しだったようだ。
夕餉の後、少し休んでから湧き湯に身を浸し、身をさっぱりさせて寝につこうとした時
「何か、悩んでいることがあるのか、千織」
と、不意に将軍が問いかけてきた。
幻獣の羽根の光が柔らかく照らす部屋で、将軍が腕組みをして佇んでいる。
千織は湯に浸り、胸に巻いていた晒を取り去ったおかげでほっと身がほぐれていたところだった。少し眠気を覚えていたのに、さっと目が覚める。
千織ははじめ質問の意味することが解らなかった。
「悩んでいること、ですか?」
と首を傾げて問い返すと、将軍は静かにうなずいた。
「夕餉の時に、思い悩んでいる様子だったが――どうした。何が気になったのだ」
はっと、驚きを顔に浮かべてしまう。
兄が口にした『トカナ王家の翠龍』をどうして自分が所持しているのか、なぜ幻獣は自分を主と呼ぶのか――
その疑問が心にのしかかってきたのだと、千織はどうしても口に出すことが出来なかった。
口ごもる千織に眼差しを注いだまま
「――俺にも、言い難いことか?」
と穏やかに将軍が問いを重ねる。
いつもなら、何のわだかまりもなく心のままに想いを伝えていたのに――
突然兄から聞かされたことが、口を重くさせる。
言い出せない千織の様子に、わずかに将軍が目を細めた。
「俺と門真がいない間、何かあったのか?」
やや具体性を帯びた問いに、再び千織は首を傾げてしまった。
「伽螺様がいらっしゃらない時、ですか?」
「ああ、そうだ」
少し言い淀んでから
「――久礼野に何か言われたのか?」
と小さく将軍が問いを呟く。
千織は瞬きをしてしまった。
「久礼野様、にですか?」
「ああ。問い詰められていたのではないのか」
顔を近づけて秘密をこぼすように呟いた久礼野の姿が、遠目からは何かを問いただしているように見えたらしい。
千織は呆気にとられて思わず口を開くと、そのままぶんぶんと顔を横に振った。
「いいえ、伽螺様。久礼野様は典薬院で学んだと話して下さっていただけです」
慌てて千織は将軍の疑念を否定した。
「シヅマの国では薬事の技は秘伝とされていますが、アガツ国では誰でも学ぶことが出来ると教えて下さいました」
上王陛下や王家の方々ために典薬司があることや、薬事を学ぶための施設があるということも、懸命に説明する。
「久礼野様は私がシヅマの領主の息子ということは何一つお気になさらず、とても親身にお話をして下さっていました。
何もとがめることなどおっしゃっていないので、ご安心ください」
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