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今の将軍は、普段と同じだった。
最初に受けた常とは違う雰囲気が微塵も感じられない。
かつて湯殿で、悲しみを千織に悟らせまいとしたことを、思い出す。
将軍が全てを一人で抱え込んで、何も教えてくれないことが悲しかった。
それほどまでに自分は頼りないのだろうか。
微笑みを浮かべる将軍の眼を見つめてから、再び千織は問いかけていた。
「何を、焦っていらっしゃたのですか? 伽螺様」
想いが溢れて声が震える。
「私にも、伽螺様のお心の内をお教えください。お願いです。私は――」
薄っすらと涙が目の縁に溜まってしまう。
「伽螺様のお力になりたいです。お気持ちを理解したいです」
千織の懸命な訴えを、将軍は黙したまま聞いていた。
長い沈黙の後、静かな吐息が漏れた。
「正月の宣旨まで」
将軍の口から、苦しげな言葉がこぼれ落ちる。
「千織を俺の伴侶だと宣言することは出来ない。今、千織がここにいることですら、上王陛下の寛大なご恩寵の賜物だ。陛下のご領分を犯すことなど、許されるはずもない」
魂の底から絞り出すように将軍が呟く。
「正月まで、たったひと月ほどの辛抱だ。十分すぎるほど解っているのに――俺は」
震える手が千織の頬に触れた。
「今すぐにでも千織と真名を交わし、伴侶として名乗りを上げたいと願ってしまった」
湯殿で、真名を告げようとした千織を制止し、正月の宣旨まで待ってくれと言ったのは将軍だ。
その冷静な判断の底で、胸の奥には抗いがたい強い想いがあったのだ。
「伴侶となれば」
痛みをこらえるように、将軍が微笑む。
「心だけでなく、体を通じて互いの想いを交わし合うことが出来る。
俺は、千織とそうなりたいと願ってしまったらしい。千織の気持ちは解っているのに、もっと強固な何かを欲してしまったようだ。まことに愚かで忍耐力のないことだ。実に不甲斐ない」
自嘲気味に呟かれる言葉を、理解しようと千織は一生懸命に耳を傾けた。
体を通じて想いを交わし合う。
それが、将軍が自分に伝えたかったことだったのだろうか。
「伴侶になると、体を通じて想いを交わし合うのですか?」
意図を汲み取ろうと問いかけた言葉に、将軍はふっと笑いを消した。
「そうだ、千織。アガツ国でもシヅマの国でも――天の神の許しを得て夫婦や伴侶となった者たちは、身を繋げて愛情を確かめ合う」
吸い込まれそうなほど、きれいな瞳が自分を映している。
隠しがたい熱がこもるその眼に視線が捉われたまま、千織は呟いていた。
「教えて下さい、伽螺様。どうしたら想いを交わせるのですか。私は伽螺様の伴侶になりたいです。どうか――」
千織の願いを耳にした途端。
将軍の顔から、表情が消えた。
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