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教えてもらった詩の中で語られた、朝霞のひたむきな思いが胸を去来する。
答える言葉の代わりに、涙があふれてきた。
懸命に千織が伸ばした手に、将軍の背中が触れる。
黒龍の主として戦いに明け暮れ、傷つき続けた背だった。上王陛下と自分の間に、揺るぎない壁のように立ちふさがって、守ってくれたのもこの背中だ。
千織は思いを込めて、ぎゅっと抱き締めた。
応えるように、将軍も身を覆いながら抱きしめ返してくれる。
温かな空間に閉じ込めらているようだ。
穏やかな沈黙の後、身を寄せ合ったまま将軍が不意に口を開いた。
「俺の母親は、望まぬ結婚を強いられた」
ぽつんと滴った言葉に、千織の身がびくっと震える。
何かとても大切なことを話してくれているのだということだけが、触れる場所から伝わってくる。
腕に力を込めた千織の耳に、穏やかな将軍の声が響いた。
「母は、生まれて間もなく実の母親を亡くし、養女として引き取られていた。養い親が決めた婚姻だ。拒否権はなかったのだろう。母は真名を得て成人を迎えるとすぐに、俺の父親のところに嫁ぐこととなった。
愛情など微塵もない、ただの契約としての婚姻だった。母に要求されていたのは、後嗣を設けて血筋を絶やさぬこと。
それだけのために、母は俺の父方の佐陀家に迎えられた」
幸せなはずの結婚を、契約と言い切る将軍の言葉が辛かった。
「母は、求められた役割を見事にこなした。嫁いでから一年後、母は佐陀家の長子として俺を産み落とした」
ふっと、将軍が言葉を切った。
「本来なら、喜ばれるべきことだったのだろう。だが、俺は脇腹に幻獣の印を持って生まれてきてしまった」
滴る言葉は、苦味を帯びていた。
「母は、生まれた赤子が黒龍の主であることを知ると、悲鳴を上げて恐怖を露わにしたそうだ。幻獣は制御が難しい。幻獣に飲まれ、人殺しとなり果てた幻獣の主も過去には居たらしい。馬が怯えるのは恐怖からだ。千織も聞いたように、幻獣の主は龍の気配を帯びている。母はそれが我慢ならなかったようだ。
人ならざるものを産んでしまったと――母は俺を嫌悪し続けた」
驚きに身を強張らせる千織を、将軍は静かに腕に包み続けていた。
どきん、どきんと自分の心の臓の音が声高に聞こえる。
まさか、将軍が――
実の母親から嫌われていたなど、思いもしなかった。
「元々、望んで嫁いだ相手ではない。かろうじて均衡を保っていた夫婦の仲は、俺が生まれたことで修復不可能なまでに壊れてしまった。同じ館で過ごしていても、両親は顔を合わせることも言葉を交わすこともなく、関係は冷え切っていた。そんな姿をみるにつけ――俺は決して妻を持つまいと強く心に誓っていた。
佐陀家の長子として、血脈を継がねばならない責務からの婚姻だ。情愛など望むことも出来ない関係を築くことに嫌悪すら覚えた。
幼少時代は拒むことが許されなかったが、俺は黒龍の主となった後、上王陛下の臣下としてひたすら功績をあげ、誰にも、何も言わせないほどの力を蓄え続けた」
ぎゅっと将軍の腕に力が籠った。
「母のようになりたくなかった。産み落とした子に呪いの言葉を吐くような者に――俺は、なりたくなかったのだ。だから、一切の縁談を俺は断り続けてきた。戦場に身を置くことを理由にして、俺は」
静かな言葉が千織の耳に触れる。
「生涯独り身を貫くつもりだった」
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