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千織が眠る間に Ⅱ
目に涙を宿したままで、千織は眠りに落ちていた。
眠りの深さを確認してから、深く抱き合った腕を緩め、将軍は千織の顔を目に映す。
淡い光の中に、あどけない寝顔が浮かんでいた。
閉じた瞼の端を転がり落ちた透明な雫は、今は乾いて頬に白い筋となって残っていた。起こさないように注意を払いながら、そっと腕を解き指で涙の痕をなぞる。
指先がざらつきを拾った。
母親のことを、自分から人に話したのは初めてのことだった。
記憶の中に封じ込め、二度と口にするまいとこれまでは考えていたのに。
この温もりを抱きしめた時、思ってしまったのだ。
自分の経てきた人生を、千織だけには知ってほしいと。
瞬きを一つすると、頬を優しく撫でる。
これほど愛しい存在がこの世にあるのだろうか。
想いが胸に詰まるようだ。
そのまま息をひそめて、将軍は静かに寝顔を見守っていた。
静寂の中に、不意に微かに扉を叩く音が響いた。
はっと視線を向けると
「将軍閣下。門真です。もうお休みですか?」
と寝についていることに配慮してか、ぎりぎり聞こえるか聞こえないかほどの囁き声がした。
今夜、門真は曲利の様子を探ると告げていた。
恐らくそこで何か動きがあったのだろう。
この深夜にでも、早急に話しておきたいことが起こったのだと将軍は了解する。
将軍は千織に素早く視線を戻した。
今日一日色々あってくたびれているためか、眠りは深そうだった。
起こさぬように注意を払いながら、そっと千織の側から動く。
静かに布団から抜け出し、将軍は扉へ向かった。
門真に返事をする前に、将軍は扉を開いた。
前で言葉を待っていたのだろう。急に扉が動いたことにわずかな驚きを門真が顔に浮かべていた。
「千織が寝ている」
ひそめた声で将軍は事情を語る。
ふっと門真の眼が優しくなった。
「そうでしたか」
門真はささっと周囲に視線を向けると
「殺鼠剤のことでお話を――と思ったのですが、明日にいたしましょうか」
と、誰に対しても大義名分がつく理由を口にした。
「明日まで伸ばす必要はない。千織はよく寝ている。部屋で話を聞こう」
そう言うと、門真はちょっとためらった。
「私の部屋で――と思ったのですが」
さらに小声になって呟く言葉に、将軍は首を振った。
「兵士を去らせている。寝ている千織を一人でここに放置するわけにはいかない。入れ。中で話そう」
「そういうことでしたら、深夜にご無礼致します」
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