目に見えない成長

1/7
前へ
/1636ページ
次へ

目に見えない成長

 稽古場から館に戻ると、将軍は手近にいた兵士に、これから湯殿へ向かうので用意を頼むと命じていた。  かなり汗をかいてしまったので、千織が胸に巻く(さらし)もぐっしょりと濡れている。将軍は気付いていたのか、命じる言葉の中に、アガツ国から運んできた、洗い替えの晒も言及されていた。  千織はほっと安堵する。  湯船から上がった後、もう一度この晒を巻くのはどうだろう、と考えていたのだ。    将軍はすぐには湯殿に向かわなかった。  新しい衣を兵士が用意し運んでくるまでの間、千織と話をしながら廊下で待っている。  洗い粉の香りも爽やかな着替えを、兵士が息せき切って運んできた。  ご苦労、とねぎらいの言葉をかけた後、湯殿まで運ぼうとする兵の手から、将軍はこの先は自分たちだけでするから大丈夫だ、と、半ば強引に衣を取り上げている。  思いがけないことだったのだろう。  兵士の顔に戸惑いが浮かぶ。  将軍はお構いなしに、もう下がって良いと兵に声をかけ、千織に笑顔を向けた。 「待たせたな、千織。行こうか」  すたすたと歩きだした背を、千織は小走りに追った。  二人分の衣を抱える将軍に 「将軍様、私がお運びいたします!」  と、千織は懸命に声をかけたが、笑い声だけでいなされる。 「湯殿までの短い間のことだ。大事ない」    結局、将軍に着替えを持たせたまま湯殿までたどり着いてしまった。  次の間に入る前に、将軍は不意に顔を動かし、背後へと視線を向けた。  廊下の向こうを見ているようだ。  その眼差しに鋭さがあった。  どことなく警戒するような雰囲気が漂っている。  廊下を歩いてくる中で、何か注意を引くようなことでもあったのだろうか?  常とは違う将軍の様子が気にかかり、千織も同じ方向へ視線を向けてみた。  けれど。  細い廊下の向こうには人影もなく、しんと静まっているだけだ。  伽螺様は、何を気になさっているのだろう?  廊下を見つめて考え込む千織の髪に、将軍の手が触れた。 「汗が少し冷えてきたな。早く湯殿に入ろうか」  見上げる将軍の顔には笑顔があった。  いつもと変わらない姿に、ほっと緊張がほぐれていく。 「はい、伽螺様」  二人きりであることに安心しながら、千織は将軍の名を呼んだ。  将軍は笑みを深めると、千織の肩に手を滑らせて奥へと(いざな)った。
/1636ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12469人が本棚に入れています
本棚に追加