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目に見えない成長
稽古場から館に戻ると、将軍は手近にいた兵士に、これから湯殿へ向かうので用意を頼むと命じていた。
かなり汗をかいてしまったので、千織が胸に巻く晒もぐっしょりと濡れている。将軍は気付いていたのか、命じる言葉の中に、アガツ国から運んできた、洗い替えの晒も言及されていた。
千織はほっと安堵する。
湯船から上がった後、もう一度この晒を巻くのはどうだろう、と考えていたのだ。
将軍はすぐには湯殿に向かわなかった。
新しい衣を兵士が用意し運んでくるまでの間、千織と話をしながら廊下で待っている。
洗い粉の香りも爽やかな着替えを、兵士が息せき切って運んできた。
ご苦労、とねぎらいの言葉をかけた後、湯殿まで運ぼうとする兵の手から、将軍はこの先は自分たちだけでするから大丈夫だ、と、半ば強引に衣を取り上げている。
思いがけないことだったのだろう。
兵士の顔に戸惑いが浮かぶ。
将軍はお構いなしに、もう下がって良いと兵に声をかけ、千織に笑顔を向けた。
「待たせたな、千織。行こうか」
すたすたと歩きだした背を、千織は小走りに追った。
二人分の衣を抱える将軍に
「将軍様、私がお運びいたします!」
と、千織は懸命に声をかけたが、笑い声だけでいなされる。
「湯殿までの短い間のことだ。大事ない」
結局、将軍に着替えを持たせたまま湯殿までたどり着いてしまった。
次の間に入る前に、将軍は不意に顔を動かし、背後へと視線を向けた。
廊下の向こうを見ているようだ。
その眼差しに鋭さがあった。
どことなく警戒するような雰囲気が漂っている。
廊下を歩いてくる中で、何か注意を引くようなことでもあったのだろうか?
常とは違う将軍の様子が気にかかり、千織も同じ方向へ視線を向けてみた。
けれど。
細い廊下の向こうには人影もなく、しんと静まっているだけだ。
伽螺様は、何を気になさっているのだろう?
廊下を見つめて考え込む千織の髪に、将軍の手が触れた。
「汗が少し冷えてきたな。早く湯殿に入ろうか」
見上げる将軍の顔には笑顔があった。
いつもと変わらない姿に、ほっと緊張がほぐれていく。
「はい、伽螺様」
二人きりであることに安心しながら、千織は将軍の名を呼んだ。
将軍は笑みを深めると、千織の肩に手を滑らせて奥へと誘った。
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