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「伽螺様、失礼いたします」
一声かけてから、よく泡立てた布でそっと身を洗いはじめる。
「ああ、すまないな。千織」
応える声が、触れる場所からも響いてくる。それが、千織は楽しかった。
大小さまざまな傷が刻まれた背に、千織は丁寧に布を滑らせた。
衣を着ていると細身に見えるが、泡越しに触れる背はとても厚い。
どれだけ修練を重ねたら、これほど立派な背が得られるのだろう。
千織はきゅっと唇を引き締めて考える。
伽螺様は、もう自分の年には初陣を迎えていたと仰っていた。
きっと、お小さい頃から稽古を重ねられたのだろう。
今の自分が追いつくには、どれだけの時間が必要なのだろう。
これまでも湯殿で目にしてきたはずだが、実際に稽古を始めた今、将軍の背から伝わる力強さに圧倒される。
泡で柔らかく触れながら、千織はあれこれと考え続けてしまった。
ぼうっと物思いにふけりながら、手を動かしていると
「千織……」
と、将軍の呼ぶ声が聞こえた。
「は、はい。伽螺様。何でしょうか」
手をぴたっと止めて問いかけると、
「先ほどから同じ場所ばかりを洗ってくれるのだな。どうした?」
と笑いを含んだ声が返ってきた。
はっと気づくと、自分は大きな筋の形をなぞるように、無意識の内に何度も手を往復させていたらしい。
擦り過ぎたらしく、そこだけ肌が赤く変じている。
「す、すみません! 伽螺様」
慌てて叫ぶように詫びを告げると、体を揺らしながら将軍が笑う。
「背のそこが気に入ったのか?」
優しい問いに、顔がぽうっと赤くなってしまう。
「あ、あの……とても立派なお背中なので……」
もごもごと消え入りそうな声で千織は呟く。
「どのぐらいお稽古を積めば、伽螺様のような背になるのだろうと考え込んでおりました」
そして、将軍が一刻半の間、緩みなく真剣を振り続けたことに、千織は心の底からの賛美を口にした。
「いつか、伽螺様のように強い武人になりたいのですが――竹の刀でも一刻半を過ぎる頃には振るのが辛くなりました」
「慣れない中、千織はよく頑張っていた」
将軍は優しい声で千織に告げる。
「焦ることはない。『涓滴岩を穿つ』といってな、涓滴は滴る水のことだが、わずかな滴であっても絶え間なく落ち続けていれば、いつしか硬い岩に穴をあけることができる、という意味の言葉だ」
少し首をひねって、将軍が千織に眼差しを向ける。
「水が長い時間をかけて岩に打ち勝つように、努力さえ続ければ、とうてい無理だと思うことでも、いつしか成し遂げることが出来る。大切なのは諦めないことだ、千織」
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