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不意に。
将軍の身が強張った。
はっと顔を上げると、こちらを見つめる将軍の眼差しと触れ合った。
将軍の黒い瞳が、揺れる。
兄から聞かされた「トカナ王家の翠龍」という言葉が、ずっと頭の端に引っかかっていた。だから、無意識に問いが口から出てしまったのかもしれない。
「いえ! 何でもありません、伽螺様」
表情を変えた将軍の姿を前にして、千織は自分が口走ったことに慌ててしまった。
とっさに目を伏せて、元の作業に戻る。
口を引き結び、千織は黙々と将軍の身を洗い続ける。
右手から左の手、足へと移っても将軍は静寂を保っていた。
「手数をかけたな、千織。ここから先は俺がやろう」
足を洗い終えた段階で声がかかった。胸や腹部は、将軍はいつも自分で洗う。
穏やかな口調にほっとしながら、千織は素直に泡にまみれた布を渡した。
「湯を汲んで参りますね」
一声かけて、このあと身を流すために、千織は湯桶を手に動いた。
石を組んだ湯船から、滾々と湧き出る湯が自然とこぼれて床を濡らしている。温かな湯を踏みながら、千織はどきどきと高鳴る胸を懸命に落ち着けようとしていた。
なぜ自分が翠龍を持っているのか。その理由を知りたいと強く思うのに、どうしても将軍に尋ねられない。
ぽろりと千織がこぼした言葉に、不意に表情を変えた将軍の姿が脳裏をよぎる。
驚きの中にわずかな悲しみが混じっているような気がした。
その悲哀が、なぜか千織の胸を刺した。
もしかしたら。
これほど将軍が強固に口を噤むのは、伝えた時自分が傷つくと思っているからかもしれない。と、ぼんやり千織は感じ始めていた。
よほど言い難いことなのだろう。
将軍を全面的に信じてお任せしよう、と思っているのに――
翠龍のことを知りたい自分がいた。
千織は湯を汲みながら、視線を落として自分の胸元へ目を向ける。
そこには翠龍の封印石が湯気越しの光を浴びて、きらきらと虹色に輝いていた。
翡翠色の鱗を持つ、美しく強い幻獣。
かつて地底湖で、涙をこぼしながら切々と語られた言葉一つ一つが、ふと胸に迫った。
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