願い

4/13
前へ
/13ページ
次へ
ある秋の穏やかな日。 輝くような大きな黄色い葉が舞い散る校内のベンチで、 祖父は件の本を、一心不乱に読んでいた。 ふとその本に人影がさすと、低い声が頭の上でした。 「ある春の日暮れです・・ですね?」 びっくりして顔をあげると、黒く長い男が目の前に立っていた。 逆光で表情はわからない。 一瞬きょとんとした祖父は、 「いや・・秋ですが・・。」と思わず身を引きながら、自国の言葉で答えて 初めて自分が母国語で話しかけられたのに気付いた。 そして、あっと気づいた。 「ああ!そうですそうです。この本の書き出しですね。お好きですか?」 黒く細い男は少し口をゆがめた。 「一応は読みました。君はいつもここにいますね。」 「同郷の方がいらっしゃるとは思いませんでした。」 男は失礼、と言いながら横に座ると祖父に向き直る。 とても若く見えるが、とても年上にも見えた。 「同郷じゃありませんよ、僕は隣国のものです。 こんなところまできて諍いを持ち出すこともありますまい。」 祖父は大きく頷いたという。 「言葉が堪能でいらっしゃる。自国の僕が聞いても隣国の方とは思えません。」 男は遠くにかたまった糸杉の黒い影を見つめて、少し言葉を切った。 「僕の祖母はそちらの国の人なんですよ。子供の頃からずっとそちらに住んでいました。 祖母が亡くなり、父と帰国しました。」 「そうだったのですか。」 「おかしなものです。あなたの国にいた時は隣の国の人間だと後ろ指さされ、 帰国すればあなたの国の人間だといじめられる。」 男は片方の口の端を少しゆがめるように上げた。 これが彼の笑顔なんだろうと祖父は思ったそうだ。 「本当におかしなことです。あなたはあなたでしかないのに。」 男は少し首をかしげるように祖父を覗き込み 「そんな風に言われたのは初めてです。」と言った。 そして名を名乗って手を差し出した。 「この自由の国では僕らは自由です。仲良くやってゆきませんか?」 祖父は喜んで答えた。 「僕の方こそよろしくお願いします!」
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12人が本棚に入れています
本棚に追加