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結局、かなり驚いた顔をしたものの、相手が明らかに医者だったからだろう、そんなに警戒することもなく、そのひとは素直に桐野に病室まで送られてくれた。
その途中の廊下で、まだ入院したばかりだということ、検査のための入院だということ、これから始まる検査の日々を少し怖いと思っている…なんてことをさりげなく聞き出して、頭の中にメモする。
そのひとは「宮原渚(ナギ)」と書かれたベッドに戻った。
その花が綻ぶような笑顔の持ち主に似合う、綺麗な名前だ。
担当のドクターは、消化器外科を専門にしている芳賀という男。
桐野の脳内で全ての情報が繋がった。
宮原渚は、膵ガンの疑いで検査入院している患者だ。
それも、かなり進行している可能性が高い。
ベッドの上に座らせて、送る口実に使ったので、一応打っているところがないか確認したい、と病衣を捲って脛や腿を診せて貰う。
医者を相手にすると、人は何も疑わず、身体を見せることを躊躇わない。
診せろと自分で言ったのに、その病衣の下から覗いた白く細い脚が眩しくて直視できず、桐野は思わず視線を反らした。
まさか自分が、男に欲情するとは。
それも、相手は患者だぞ?
宮原は、そんな桐野の葛藤に気づくはずもない。
「どこも打ってないみたいです…わざわざありがとうございました」
そして、桐野の首からかかっている身分証の名前を見る。
「桐野、先生…?」
ああ、と彼はまたその笑顔を見せてくれた。
「貴方が噂の若先生なんですね」
噂どおり、とてもかっこよくて優しい。
そんなふうに言われて、なんだか桐野は柄にもなく照れ臭くなる。
普段なら「そうです、かっこよくて優しいでしょう?」と、すかさず畳み掛けるところだ。
でも、そのひとには。
「そんなことないですよ…みんなを欺いているだけです」
なんとなく、そんなふうに悪ぶってみたくなった。
「本当は物凄く悪い男なんですよ、私は」
そう言って、その仄白い顔を覗き込むように、顔を近づけると。
宮原は、びっくりしたように瞳を丸くして、それからすぐにまた、フフと笑みをこぼした。
「じゃあ、本当は悪い先生に優しくして貰えて、俺はラッキーなんですね」
他愛もない言葉遊びのような会話だった。
ただそれだけの会話が、そのひとの微笑みが、しかし桐野の頭からずっと離れなかった。
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