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夫が遠方の営業所に異動になったので、Sさんは結婚前からの仕事を辞め、有給消化期間に引っ越し準備をすることになった。
ネットでいくつかの物件をピックアップし、現地の不動産仲介業者にアポをとる。夫は仕事を休めないので、物件の内見にはSさんひとりで向かった。
担当者はヤスダという名の男だった。しかし実際に会ってみると、どうも不穏な気配がする。
あらかじめメールや電話でやりとりした条件や事情を、ヤスダは全て無視し、一方的に話を進めようとするのだ。胸の名札を何度も確認するが、彼で間違いない。四十代半ばくらいで中肉中背、これといった特徴の無い男だが、終始きょとんとした表情を浮かべているのが悪い意味で印象的だ。その愚鈍さが、職場の人間関係に多大に影響しているとみえる。
というのも、他のスタッフたちは明らかにヤスダを侮蔑していた。
客のSさんがいる目の前で、通りすがりにヤスダの背中を小突く、肩を殴る、頭から紙資料をぶちまける。あっすみません、いえいえ、などと、不愉快なやりとりが何度となく繰り返される。
Sさんが唖然としていると、ヤスダは首を歪めて視線を上下させ、えへへ、と笑った。愛想笑いのつもりだろうか。それにしては目を剥きすぎている。
なるべく手短に済ませたい。さっそくSさんは、プリントアウトして持参した二、三の物件を内見したいと申し出た。ヤスダの運転する車にひとりで乗るのは嫌だったが、幸い、若い男性スタッフが運転する段取りになっているらしい。Sさんが入店してから見る限り、運転手役のスタッフはいじめに加わっていなかったので、やや安堵した。が、ヤスダがのっそりと助手席に乗り込んだ途端、運転手は聞えよがしに何度も舌打ちをしはじめた。湿った舌打ちの合間に、後部座席のSさんに営業スマイルをふりまくのがまた薄ら寒い。
「Sさんご希望物件の他に、おすすめの物件があるので、まずはそちらを見に行ってみましょう」
助手席から振り向きもせずヤスダが言う。
丁重にお断りしようと身を乗り出したとき、運転手が一際強く舌打ちを響かせたので、Sさんは声を発するタイミングを逃してしまった。
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