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近づくと、女は腐って傾いた自分の古い棲み家に微笑みかけた。
「いろんなことがわからないの」
「そうなんですか」
ごろごろごろ、と締まったタイヤが小石を踏みしめる。
「川堂さんに好きだと云われたときには、厭になった。ほかの男のひとに云われたときもそうだった。──でも、あなたにだけは」
「……!」
──夏目は、もう破裂しそうになった。
相手は、首輪からなめらかな鎖骨へ滑り落ちてゆく夜を、血の気のない指で触れ、
「あなたにだけは」
と囁(ささや)く。
「はい……」
「触れてほしくない」
「──!」
「きっと触れられたら」
「……」
「もし、また愛する人にその指で絞められたら、って……」
「──!」
女はひとさし指をすっと伸ばし、現場となった自分の廃墟屋敷に向かってぐるぐる渦巻きを描いた。内部が竹林と化した棲み家のうえには、伴星をともなう恒星たちが狭しと犇(ひし)めいている。
彼女は、
「夜空のいろは、ぜんぶ黒い流れ星でできている」
と言った。
ぎゅッ。そんな音とともに、屋敷の煤けた電気メーターがぐらりと傾いた。ひっくり返って振り子のように揺れる。
よう香は、顔をあげ、澄んだ北極星を真正面にみるようにして、その同心円状の放散光にくちを開いた。
ふたたび頭頂から、一つぶのしずくを垂らす。
「憎むってどうするの? どんな風に憎めばいいの」
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