56/193

53人が本棚に入れています
本棚に追加
/193ページ
  「……よう香さん?」  呼んでみた。しかし、返事は無い。  勝手に侵入してはいけない、とドアを閉めかけたが爪先はすでに内部へ入っていた。  夏目はとうとうその、木切れと苔まみれの玄関ぐちで靴を脱ぎ、闇の詰まったさえずりの中に足を踏み入れた。  そこでは──  腐った畳が、燧火(すいか)色にあちこち仄光っていた。  天井あたりのどこか破れた場所から、月色が斜めに落ちている。  さしこむ輝きは、小石やら、かたほうの女物の靴やら、転がったちいさな匙やら、兎のぬいぐるみやら、錆びたミルク缶のようなものなどを照らしていた。──ミルク缶は、激しく凹んで居た。  夏目はその有様を見て、何故か1969年にアポロが到着した月面を思った。  よろめくように、足場のわるい畳の上を歩きながら考える。  宝石なら、働いて買うことができる。きれいなスカートや靴も花束も、美味しいケーキも。または美しい景色が見える場所にでも、連れて行ってやることはできる。  
/193ページ

最初のコメントを投稿しよう!

53人が本棚に入れています
本棚に追加