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   すうっという冷気が足元を吹き抜けた。屋敷の外で煉瓦積が崩れ落ちた音がした。風化した庭の塀が留まる力を失い、夜のやわらかい土に衝突したのだろう。  相手の静息(せいそく)に息を強張らせる。彼女はこっちを拒否しているのか?  ──先ほどの言葉がよぎった。  “あなたにだけには、触れられたくない”  しかし確か、こうも言っていた。  “愛するひとに、また絞められたら” 「……」  何故だ? と夏目は頬を紅潮させた。知り合ってほとんど時が経っていない。なのに“愛する“などと……  女っ気もなく、しがない漢方薬局に勤め、穴だらけのボンネットの軽自動車に乗り、冬場の休日は日雇い工事のバイトをしている。そんな男のどこに、彼女は──?  夏目はその無垢さが、おそろしくなった。   
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