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「左様にご案じ召さるな。この景漸(かげつぐ)とて、先の大飢饉の折、江戸の町人共に犬を喰えと放言いたしたのだからな。尤(もっと)も、それで江戸町奉行の職を追われたがな」
景漸(かげつぐ)はそう冗談を言い笑ってみせることで、元気のない長恵(ながしげ)の心を解きほぐそうとし、長恵(ながしげ)もまた景漸(かげつぐ)の冗談に思わず笑い、少しだけ元気を取り戻すと同時に、その心遣いに感謝もした。
すると景漸(かげつぐ)と向かい合って座っていた鎮衛(やすもり)がそんな二人に対してキッと睨(にら)みつけたかと思うと、
「何をコソコソと話されては笑っておられるっ」
二人を…、とりわけ長恵(ながしげ)を詰問したのであった。
「いや、その…」
長恵(ながしげ)は返答に困った。まさか、景漸(かげつぐ)に悩みを打ち明け、それに対して景漸(かげつぐ)が励ましてくれたので少しだけだが元気を取り返したなどと、鎮衛(やすもり)にだけは絶対に打ち明けたくなかった。
だが鎮衛(やすもり)が大人しく引き下がる筈(はず)もなく、黙っている長恵(ながしげ)に対して、
「黙っていればそれで事が済むとお思いか。まこと幼稚なるお方ぞ。これだから大名の子息は駄目なのだ。さぁ、何を話されていたのか申されよっ」
いよいよ威丈高(いたけだか)に詰問する始末である、そのせいで少しだけ元気を取り戻した長恵(ながしげ)はまたしても元気を失うどころか、うつむく始末であった。
するとそれを救ったのはやはり景漸(かげつぐ)であった。
「いい加減にされよっ。わしと池田殿とはあくまで私的なことで話しおうておったのだ。一々、そこもとに打ち明ける謂(いわ)れはないわっ」
景漸(かげつぐ)はそう吐き捨てると、鎮衛(やすもり)も負けじと言い返した。
「如何(いか)に今がご老中方を待つ、一時(ひととき)とは申せ公務中。その公務中に私的な話ををするなど言語道断であろうっ」
「何だと…」
景漸(かげつぐ)と鎮衛(やすもり)との間で剣呑(けんのん)な雰囲気になりかけると、さすがに周囲もそれに気付き始め、皆、オロオロし始めた。まさか刃傷沙汰になることはあるまいが、それでも油断はできない。するとそこへ救世主の如(ごと)く、定信ら老中が姿を見せ、皆、心底からホッとした。無論、長恵(ながしげ)もそうであった。
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