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景漸(かげつぐ)も鎮衛(やすもり)も、定信ら老中を前にしてまで剣呑(けんのん)な雰囲気をひきずるほどには幼くはなかったので、直ちにそれまでの剣呑(けんのん)な雰囲気がまるで幻であったかのように平静さを装った。
一方、老中首座である松平定信を始めとし、勝手掛老中の牧野(まきの)越中守(えっちゅうのかみ)貞長(さだなが)・鳥居(とりい)丹波守(たんばのかみ)忠意(ただおき)、松平(まつだいら)伊豆守(いずのかみ)信明(のぶあきら)、松平(まつだいら)和泉守(いずみのかみ)乗完(のりさだ)ら五人の老中はそうとも知らず、中之間に足を踏み入れると、長恵(ながしげ)らは一斉(いっせい)に平伏(へいふく)してこれを出迎えた。
「面(おもて)をあげぃ」
定信のその声で長恵(ながしげ)らはやはり一斉(いっせい)に頭をあげた。それにしても、「面(おもて)をあげぃ」とはまるで将軍にでもなったかのような物言いであった。いや、実際、定信には、
「本来ならば我こそが十一代将軍である」
そんな意識が見え隠れしていた。
さて頭を上げた長恵(ながしげ)らに対して、やはり定信が「何か変わりはないか?」とたずねた。これもさきほどの言葉とあわせて、日課と言えた。そして本当であれば、
「今にも景漸(かげつぐ)と鎮衛(やすもり)との間で斬り合いが演じられるところであった…」
と変事寸前であったものの、それを口にする者は誰一人としていなかった。長恵(ながしげ)も勿論、口にはしなかった。そんなことをすれば、鎮衛(やすもり)はともかく、己を庇(かば)ってくれた景漸(かげつぐ)までが何らかの不利益を蒙(こうむ)るやも知れなかったからだ。無論、殿中にて刀を抜き合わせていない段階で罪に問われることはないであろうが、その後の出世に響く…、もっと言えばそれ以上の出世が望めぬやも知れず、そのような不利益を景漸(かげつぐ)に蒙(こうむ)らせることは決して長恵(ながしげ)の本意ではなかったので黙っていたのだ。
そして定信は今日もまた、何も変わったところがないと知るや、「気儘(きまま)にして良い」と命じた。するとその命を受ける格好で、長恵(ながしげ)らは中之間の上座に着座した定信らの下へと進み出た。
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