南町奉行就任

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 寛政元(1789)年、9月7日、京都東町奉行であった池田(いけだ)筑後守(ちくごのかみ)長恵(ながしげ)は江戸南町奉行に栄転した。勘定奉行や旗奉行、下三奉行とも称される作事・普請・小普請奉行、甲府勤番支配といった御役を一気に飛び越しての大栄転と言えた。それだけ期待されているという証とも言えた。無論、老中の松平定信に、である。だが長恵(ながしげ)はプレッシャーに負けそうであった。  江戸城本城の中奥(なかおく)、御座之間(ござのま)にて南町奉行を命じられた長恵(ながしげ)はその足で表向(おもてむき)へと戻ると、 「修理(しゅり)殿、いや、筑後守(ちくごのかみ)殿」  と北町奉行の初鹿野(はじかの)河内守(かわちのかみ)信興(のぶおき)が声をかけてきた。 「おお、河内守(かわちのかみ)殿か」  今にもプレッシャーに押し潰されそうな長恵(ながしげ)であったが、信興(のぶおき)の顔を見え、少し元気を取り戻した。 「南町奉行就任、おめでとうござる」  信興(のぶおき)はそう祝いの言葉を述べると腰を折ったので、長恵(ながしげ)も「かたじけない」と腰を折った。 「それにしても修理(しゅり)…、ああ、昔の癖で申し訳ござらぬ、筑後守(ちくごのかみ)殿とまた相役(あいやく)として仕事ができると思うと、嬉しゅうござる」  信興(のぶおき)のその言葉に偽りはなかった。そのことは長恵(ながしげ)も良く分かっていた。それと言うのも、長恵(ながしげ)と信興(のぶおき)はかつては目付として相役(あいやく)…、同僚であったからだ。そしてその時はまだ、長恵(ながしげ)は今のように筑後守(ちくごのかみ)を名乗ってはおらず…、それどころか長恵(ながしげ)という名も名乗ってはおらず、修理(しゅり)という通称を用いており、信興(のぶおき)が長恵(ながしげ)のことを、修理(しゅり)と二度も言い間違えたのはその時の癖がまだ抜けきれていなかったからだ。ちなみに信興(のぶおき)もまだ、その時は河内守(かわちのかみ)信興(のぶおき)を名乗ってはおらず、伝右衛門(でんえもん)の通称を名乗っていた。
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