南町奉行就任

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「俺もようやく初鹿野(はじかの)殿に追いついたわけだな」  長恵(ながしげ)がそう言うと、信興(のぶおき)は恐縮した。出世の登竜門とも言える目付に最初に登用されたのは長恵(ながしげ)であり、信興(のぶおき)は長恵(ながしげ)が目付に就いてから3年後に目付に登用され、長恵(ながしげ)は信興(のぶおき)の目付時代の先輩であった。  だがその後の出世は信興(のぶおき)の方が早かった。長恵(ながしげ)が目付から京都東町奉行に栄転を果たした天明7(1787)年、信興(のぶおき)も浦賀奉行に栄転した。京都東町奉行と浦賀奉行とでは、京都東町奉行の方がランクが遥かに上であった。しかし、去年の今頃、信興(のぶおき)は長恵(ながしげ)よりも一足早く、江戸北町奉行に大栄転を果たしたのである。京都町奉行から江戸町奉行への栄転でも大栄転と言えるのだから、浦賀奉行から江戸町奉行への栄転は大大栄転と言えるかも知れなかった。  ともかく長恵(ながしげ)としては旧知の信興(のぶおき)が相役(あいやく)であるだけでも、少しだけだがプレッシャーから解放された。 「いや…、初鹿野(はじかの)殿が相役(あいやく)で良かった…」 「と申されますと?」 「いや…、猪武者のこの俺が、果たして江戸町奉行という重職が務まるかどうか…、それが不安でならぬのだ…」  長恵(ながしげ)がそう言うと、信興(のぶおき)は「金太郎殿らしくもない」と言って笑った。金太郎と言うのは長恵(ながしげ)の渾名であった。長恵(ながしげ)は自他共に認める猪武者であった。京都町奉行時代、米不足であった折に法外な値で米を売りつけようとした米屋をさっさと処刑してしまったのがその好例であり、そのような猪武者ぶりから、いつしか「金太郎」という異名が奉られたのであった。 「いや…、遠国奉行時代ならいざ知らず、この江戸においてそのような…、つまりは俺のやり方が通用するのかと、不安でならぬのだ」 「お気持ちは分かります。さればこの信興(のぶおき)、池田殿の相役として、池田殿を助け申し上げますゆえ、そのように案じられますな」  長恵(ながしげ)はこの信興(のぶおき)の言葉に心から感謝した。
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