金太郎いじめ

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「根岸」  定信が静かではあるが、断固とした響きのある口調で鎮衛(やすもり)の苗字を口にし、鎮衛(やすもり)の口を閉ざした。 「長恵(ながしげ)の遅刻は連絡の行き違い、となれば長恵(ながしげ)に今日の評定を伝えると申し出たそなたにも遅刻の責(せめ)があろう。そなたがきちんと長恵(ながしげ)に伝えておれば、長恵(ながしげ)も遅刻せずに済んだのだからな」  定信は鎮衛(やすもり)の嫌がらせ…、長恵(ながしげ)には今日の評定につき自らが長恵(ながしげ)に伝えると申し出ておきながら、その実、長恵(ながしげ)には伝えず、遅刻させることで長恵(ながしげ)に恥をかかせるという、そんな子供じみた鎮衛(やすもり)の嫌がらせなど、とうの昔に見通しであるらしかった。それだけでも長恵(ながしげ)は少し、溜飲(りゅういん)の下がる思いであった。それにしても、定信は長恵(ながしげ)のことは筑後守(ちくごのかみ)なる官職名ではなくその長恵(ながしげ)なる諱(いみな)で呼ぶのに対して、鎮衛(やすもり)のことは肥前守(ひぜんのかみ)なる官職名で呼ばず、さりとて鎮衛(やすもり)なる諱(いみな)で呼ぶこともせず、ただ根岸とその苗字で呼ぶあたり、定信は長恵(ながしげ)に対しては親近感を抱いているのに対して、鎮衛(やすもり)に対しては距離を感じさせた。事実、定信は鎮衛(やすもり)のことを内心、毛嫌いしており、それでも公事方勘定奉行として登用したのはその能力の高さゆえである。そうでなければ絶対に御役になど就けはしなかっただろう。  それはそうと、長恵(ながしげ)いじめに勤(いそ)しむ鎮衛(やすもり)も、定信には強く出ることなど出来よう筈(はず)もなく、ただ小さく、「それがし、確かに筑後(ちくご)に伝えましてござりまする」と答えるのが精一杯であったが、しかし、定信はこれに対しても、 「現に長恵(ながしげ)がこうして遅刻してきた以上は連絡の行き違いとしか考えられんっ。責(せめ)はお互い様ぞっ。左様な、女々しい言い訳はするなっ。それでも武士かっ。女の腐ったようなやつめっ」  武士として最大限の侮辱を与えることで、鎮衛(やすもり)の顔面を蒼白(そうはく)にさせた。 「これだから下賤(げせん)な成り上がり者は困る」  定信はいつもの十八番(おはこ)を付け加えることも忘れなかった。
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