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足の熱さと霧と風の冷たさを感じながら、僕は音と対峙していた。だが、姿は見えない。代わりに今まで気がつかなかった"巨大な影"が床に落ちていた。
――この影が、空を切り裂く音の正体なのか。
僕の周りを旋回する音を聞きながら、ゆっくり目を伏せた。自殺行為だと思うかもしれない。実際僕もそう思う。……だが鈴の音が、あの柔らかな声がそうする様に誘導していたのだ。
疑いもせず素直に従う。抗う理由も無かった。
何故か、この声は僕を助けてくれる気がした。
――ヒュ……ヒュウ……、ビュッ!!
激しい空気の振動が波紋の様に肌を刺す。
凄まじい突風が僕に向かってくる――。
目を開くと、霧の中に大きな双眸が見えた。
――深い哀れみの色。
慈悲か、憐憫か、歓喜か――。獣の様な鋭い瞳孔が僕を捉えていた。
それを見た瞬間、僕の心に恐怖の波紋が一気に広がった。
『まだ開いては駄目。もう一度閉じて。お願い、信じて――』
――チリンッ……チリリ……。
言われるがままに再び目を閉じた。
瞼の裏は静かな夜。ガラス玉の何も映さないはずの目が、白磁器の如く透き通る足を捉えた。
今にも消えそうなその足は、所々擦り傷が出来ていて紅い血が滲んでいた。その細さと造形から、女性のものだ。
裸足で闇に立つ"その人"からは、微かに温かい太陽の匂いがした。
「……君、は」
漸く発する事が出来た声は、酷く掠れていた。久々に声帯を動かした様な感覚に、思わず喉を押さえた。
すると、その足が僕の方に向かって来た。
チリリと鈴の音と共に、ゆっくり、ゆっくり……。時間が止まっているのか、あの音の衝撃はまだ来ない。
震える空気も、肺に染み渡る冷気も、全てがピタリと止まっていた。
「……っ」
頑張って喉仏を動かそうと試みるが、息が漏れるだけで音にはならなかった。
『貴方の本能とリンクさせてもらっているの。ごめんなさい、勝手に意識に入り込んで』
何を言っているのか分からない。リンク?意識?そもそも君は一体誰なんだ。
『でも、貴方は他の鳥達と違う。だからこうして私の声無き声が届いた。これもきっと奇跡……必然だと思う』
匂いがすぐ側まで来ている。
しかし、肝心の顔は全く見えない。上半身は暗闇に隠れて見えず、擦り切れた純白のワンピースの裾が、ふわりと揺れているだけだった。
そのワンピースの裾には、コーヒーを零した様な染みが広がっている。それは恐らく僕のパーカーに染みた生の証と同じものだろう。
「……っ、どう、して」
どうにかして凝り固まった声帯を動かす。その度に喉に鋭い痛みが走るが、問わずにはいられなかった。
『……私は貴方の味方。前にここへ来た可愛い鳥は駄目だったけど、貴方には覆す力がある。だから、それに賭けてみる事にしたの。大丈夫、信じて――』
彼女の強い意志を感じて、僕はゆっくり頷いた。
途端に、あの優しい匂いが強くなった。
『……目を。今すぐ、目を開いて――!』
――チリンッ……チリ……!
声に導かれる様に僕は思い切り目を開いた。
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