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突風で舞い上がった前髪。霧に反射して輝いた僕の目が"影"の双眸に映ったのを見た。
――ヒュ……ヒュウ……ヒュ……。
それを見た"影"は、勢力を失った台風の様に果てない深い霧の中へ消えて行った。
音が遠ざかり完全に霧に紛れた事を確認した途端、糸が切れた操り人形の如く、僕は激しい痛みと酷い倦怠感に襲われその場に崩折れた。
古びた床に、未だ流れ続ける鮮血がぽたぽたと音を立てて落ちた。鮮やかな紅が黒ずんだ床に良く映えていた。
「……っ、うぅ」
呻く事さえ体力を奪う。
何となく、彼女とのリンクが切れた様に感じた。一直線に向かっていた思考が渦巻き始め、研ぎ澄まされた神経が急激に鈍くなった。
霞む思考の渦、濃霧に濡れた冷たい床で僕は微睡む。いよいよ、意識を保っている事が困難になっていた。
「……どう、して」
――何故なのか。それは僕にも分からない。あの柔らかな声がそう言ったから。
僕はあの声に本能を委ねた。結果的に無事……とは言い難いが、命だけはある。内側から脈打つ鼓動の音を感じている。
僕は、どうなるのだろうか――。
このままこの異様な朝霧町で野垂れ死にか。それとも次に目を開けたら元の朝霧町に戻っている……のか。
いずれにしても、酷く眠い。
視界が端からフェードアウトしていく。
『良かった……。関わってしまった以上、貴方も数奇な運命を辿る事になるかもしれない。でも、きっと貴方なら大丈夫』
――チリン、チリン……。
頬を温かい何かが撫でた。
『さぁ、霧が晴れるわ。元の世界にお帰り――』
――チリン……チリン……チリリ。
彼女の足元には、菊の花弁が散らばっていた。
薄暮の町を覆う濃霧が少しずつ晴れていく。目眩がして揺れる視界の中に、あの白い足がゆっくりと立ち去る姿を見た――様な気がした。
何処かで見覚えがある……。つい最近会った様な……。
極限状態で走り回っていたせいか、僕は酷く疲れていた。心地良い闇に思考を奪われていく。瞼が自然と降りてくる。最早抗う術は無かった。
世界がフェードアウトした――。
***
――一滴の雫が世界の始まりを告げた。
頬に落ちた冷たい感覚に、僕はゆっくり目を開いた。白く霞む視界と思考の中、とりあえず深呼吸をしてみる。
……生きている。これが黄泉の夢じゃなければ、僕は生きている。
確かめる様に気怠い身体を起こそうと身体に力を入れた。
「……ぁ、痛っ!……うぅ」
神経が引っ張られる様な鈍痛に襲われて、思わず声が出てしまった。
少しでも身体を動かせば、煮え滾る湯の中に足を入れ皮膚の奥底まで焼かれる様な痛みが全身を駆け抜けた。
夢なんかじゃ、無かった――。
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