Chapter 2 「誘引《ゆういん》」

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「――動かない方がいいよ。酷い怪我してるから」    霧の町の中、僕があれだけ探し求めていた声が上から降ってきた。霞む目を(こす)って必死で姿を探す。 「……小鳥遊、鳴」  出血のし過ぎで恐らく顔面蒼白であろう僕が、小鳥遊の漆黒の瞳に映った。朧気に映る小鳥遊は厳しい表情で僕を見下ろしている。  一体僕はどうなったのだろうか――。  背中をつけている床が冷たい――。ここは、何処だ?この感覚と、錆び付いた臭いに覚えがあった。 「……ここは朝霧中の屋上。鳳君、ここで倒れてたの」  何も言わない僕を見て察した小鳥遊が小声で言った。彼女は辻で会話を交わした時と全く同じ格好だった。  ただ一つ、白菊の花束が無い事を除いて――。 「……屋上?」  僕の声は掠れていた。 「そう。……救急車呼んだから。安心して」  小鳥遊の言葉に何とか意識を身体に向けると、あの血が流れ出る感覚はいつの間にか無くなっており、僕が止血した箇所とは別に、太腿に圧迫感があった。  重い眼球を何とか動かすと、僕の左足首と太腿の付け根に綺麗な包帯が巻かれ、腕や足の擦り傷は真新しいガーゼで消毒されていた。  ……小鳥遊が手当してくれたのか? 「……あの、さ。あの辻で……」  渇いた唇から絞り出した声は言葉を(つむ)ぐ事が出来なかった。  そして酷く喉が渇いていた。そのせいで声帯が引き()り、声が出し(にく)い。 「喋らない方がいい。安静にして。それより鳳君――どうして?」  顔を僕の右耳に近づけた半分の小鳥遊は、ゆっくり瞬きをした。  ゴールデンウィーク中の誰もいない学校だ。周囲を気にしてか、声のボリュームを抑えている。  小鳥遊の質問の意図が読めず、僕は困惑した。そもそもあの後僕はどうなったのか。この朝霧中の屋上でどれ程気を失っていたのか。時間と空間が脳の認識と噛み合わず、思考が渦巻いていく。  ――あの死の影は幻?それとも……。 「可能なら瞬きで答えて。イエスなら一回、ノーなら二回」  小鳥遊の問い掛けに僕は一回瞬きをした。 「あの辻で、何があったか覚えてる?」  二回。 「私と話してた事は覚えてる?」  一回。 「これが現実だと分かってる?」  一瞬迷ったが、一回。 「貴方は朝霧町にいた……そう?」  これには戸惑った。朝霧町と言えば……そうなのだろう。景色は見覚えがあったし、朝霧中学校も存在していたのだから。  たが、僕の知っている朝霧町では無かった。  逡巡(しゅんじゅん)してしまい、返事をする事が出来ないでいた。すると小鳥遊は、先程とは打って変わって力強い声で言った。 「――どうして、"夕霧町(ゆうぎりちょう)"から(かえ)って来れたの?……貴方だけが、"(にえ)"にならずに済んだなんて――」  夕霧町?贄……?  意味が、分からない。自分が置かれている状況も、この背中に広がる冷たい床の感触も、真剣な顔している小鳥遊も……。  対岸(たいがん)の火事の様に、僕はぼんやりと空を見上げた。  空には夜を待ちわびていた星々が煌めいている。掴めそうで掴めない、不変の月が町を照らしている。 「……匂い……」 「匂い?」  思わず口に出していた。 「そ、う……あの、陽だまりの、匂いが……」  途切れ途切れの意識の中、あの陽だまりの匂いだけははっきり鼻に残っている。優しい声と、軽やかな鈴の音と共に――。 「……呼んで、大丈夫……だ、と」  満天の夜空に独り言の様に呟く。何故だろう。あの事は小鳥遊だけに伝えなければならない気がした。小鳥遊以外に話してはいけない気がした。  不意に、冷たい何かが右手に触れた。 「……この先は、貴方が落ち着いたら聞かせてもらうから。今はゆっくり休んで。……お休みなさい」  五月と言えど、まだ肌寒い。  それが僕を探してすっかり冷えきった小鳥遊の手だと、僕は後から知った。  僕は休息を欲している身体の意志に逆らえず、重い瞼をゆっくり閉じた。  恐らくこの時、僕は理不尽な死の影を掴み始めていたのかもしれない。  それと同時に、もう戻れないのだと知った――。
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