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「――動かない方がいいよ。酷い怪我してるから」
霧の町の中、僕があれだけ探し求めていた声が上から降ってきた。霞む目を擦って必死で姿を探す。
「……小鳥遊、鳴」
出血のし過ぎで恐らく顔面蒼白であろう僕が、小鳥遊の漆黒の瞳に映った。朧気に映る小鳥遊は厳しい表情で僕を見下ろしている。
一体僕はどうなったのだろうか――。
背中をつけている床が冷たい――。ここは、何処だ?この感覚と、錆び付いた臭いに覚えがあった。
「……ここは朝霧中の屋上。鳳君、ここで倒れてたの」
何も言わない僕を見て察した小鳥遊が小声で言った。彼女は辻で会話を交わした時と全く同じ格好だった。
ただ一つ、白菊の花束が無い事を除いて――。
「……屋上?」
僕の声は掠れていた。
「そう。……救急車呼んだから。安心して」
小鳥遊の言葉に何とか意識を身体に向けると、あの血が流れ出る感覚はいつの間にか無くなっており、僕が止血した箇所とは別に、太腿に圧迫感があった。
重い眼球を何とか動かすと、僕の左足首と太腿の付け根に綺麗な包帯が巻かれ、腕や足の擦り傷は真新しいガーゼで消毒されていた。
……小鳥遊が手当してくれたのか?
「……あの、さ。あの辻で……」
渇いた唇から絞り出した声は言葉を紡ぐ事が出来なかった。
そして酷く喉が渇いていた。そのせいで声帯が引き攣り、声が出し難い。
「喋らない方がいい。安静にして。それより鳳君――どうして?」
顔を僕の右耳に近づけた半分の小鳥遊は、ゆっくり瞬きをした。
ゴールデンウィーク中の誰もいない学校だ。周囲を気にしてか、声のボリュームを抑えている。
小鳥遊の質問の意図が読めず、僕は困惑した。そもそもあの後僕はどうなったのか。この朝霧中の屋上でどれ程気を失っていたのか。時間と空間が脳の認識と噛み合わず、思考が渦巻いていく。
――あの死の影は幻?それとも……。
「可能なら瞬きで答えて。イエスなら一回、ノーなら二回」
小鳥遊の問い掛けに僕は一回瞬きをした。
「あの辻で、何があったか覚えてる?」
二回。
「私と話してた事は覚えてる?」
一回。
「これが現実だと分かってる?」
一瞬迷ったが、一回。
「貴方は朝霧町にいた……そう?」
これには戸惑った。朝霧町と言えば……そうなのだろう。景色は見覚えがあったし、朝霧中学校も存在していたのだから。
たが、僕の知っている朝霧町では無かった。
逡巡してしまい、返事をする事が出来ないでいた。すると小鳥遊は、先程とは打って変わって力強い声で言った。
「――どうして、"夕霧町"から還って来れたの?……貴方だけが、"贄"にならずに済んだなんて――」
夕霧町?贄……?
意味が、分からない。自分が置かれている状況も、この背中に広がる冷たい床の感触も、真剣な顔している小鳥遊も……。
対岸の火事の様に、僕はぼんやりと空を見上げた。
空には夜を待ちわびていた星々が煌めいている。掴めそうで掴めない、不変の月が町を照らしている。
「……匂い……」
「匂い?」
思わず口に出していた。
「そ、う……あの、陽だまりの、匂いが……」
途切れ途切れの意識の中、あの陽だまりの匂いだけははっきり鼻に残っている。優しい声と、軽やかな鈴の音と共に――。
「……呼んで、大丈夫……だ、と」
満天の夜空に独り言の様に呟く。何故だろう。あの事は小鳥遊だけに伝えなければならない気がした。小鳥遊以外に話してはいけない気がした。
不意に、冷たい何かが右手に触れた。
「……この先は、貴方が落ち着いたら聞かせてもらうから。今はゆっくり休んで。……お休みなさい」
五月と言えど、まだ肌寒い。
それが僕を探してすっかり冷えきった小鳥遊の手だと、僕は後から知った。
僕は休息を欲している身体の意志に逆らえず、重い瞼をゆっくり閉じた。
恐らくこの時、僕は理不尽な死の影を掴み始めていたのかもしれない。
それと同時に、もう戻れないのだと知った――。
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