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材料の切り方、火加減、盛り付け方……。
聞いているだけでは酷くつまらない。若い家庭科の先生が一通り説明を終えた後、マツケン達に軽く手を振って僕は足早に図書室へ向かった。
保健室、技術室、柔道室、特別指導室……そして一番奥のプールに近い位置にあるのが家庭科室。一階の奥は光が届かない構造のため昼間でも暗く、ましてや授業中なので誰も廊下を歩いていない。
塵と埃が舞う人気の無い廊下で響く僕の足音が、今この世界で鳴っている唯一の音に思えた。僕はいつか読んだ小説の一節を思い出していた。
『苛立つ程美しい満月の夜。この怪しい霧に包まれた暗がりの廊下を、光に続いていると信じてひたすら前に進んで行く。
もしこの道が死に通ずる悪魔の誘いなら、僕はその囁きを振り払わなければならない。
大丈夫――あの朔望の娘が教えてくれる。
全てを終わらせる為に僕がやるべき事を――。』
この小説は僕が引っ越す前、東京の小学校の図書室で見たお気に入りの一冊。
学園ホラーと言うよりはホラー要素も含んでいるミステリーだった。舞台は東京の私立高校で、ある満月の夜を境に学校で連続殺人事件が起きる――とあらすじは今でもそらで言える程好きだった。
ふと気がつくといつの間にか四階の踊り場に立っていた。どうやら夢中になり過ぎたようだ。
渡された課題は栄養素や野菜の切り方の名称などテストじみた物だった。料理を普段からしていて、料理本もたまに読む僕にとっては楽勝の内容。とりあえず埋めておけば後は何をしても問題無いだろう。
一階と同様に人気のない四階の図書室の扉を一瞬躊躇してからノックした。「入りなさい」と、扉越しにくぐもった声が聞こえた。
「鳳君だね。事情は先生から聞いているよ。適当に座ってやりたまえ……あぁ、私は司書の鷲尾だ。出張でいない事もあるが基本的にはいつもここにいる」
「……よろしくお願いします」
入ってすぐの右側のカウンターに、白髪の眼鏡を掛けた初老の男性が座っていた。恐らく日向が言っていた司書だろう。
落ち窪んだ眼窩と頬骨の張った気難しそうな人だった。眉間に皺を寄せて手元の書類をかったるそうに書き続けている。
僕は軽く会釈をして、明るい日が差す窓際の席へ向かった。昨日、天野が座っていた奥のテーブルだ。
角の本棚を曲がって、僕は立ち止まった。
「――小鳥遊、鳴」
僕の小さな呟きは照り付ける日差しに溶けて消えた。
汚れや傷だらけの古い長机に、頬杖をついて微動だにしない烏少女――小鳥遊鳴がいた。逆行ではっきり表情は見えなかったが、真剣な眼差しで手元を見ている。
僕の気配に気がついたのか、机上に開かれた分厚い本から視線を上げ、緩慢な動作で僕の方を見た。
「……どうして、貴方がここにいるの?」
声は落ち着いていたがどうやら驚いた様子だった。零れそうな程大きく見開かれた目に、同じく驚いた顔をした僕が映っていた。
こんなに早く会えるなんて思ってもいなかった。霧の中に姿を隠しては曖昧な言葉で僕を翻弄するこの気まぐれな烏に――。
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