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「あぁ、僕はちょっと課題で……。それより、僕と同じクラスだったんだね。どうして言ってくれなかったの?」
「別に隠すつもりはなかったんだけど。私も昨日、あの人に聞いて知ったから」
あの人?鳰先生の事か。
僕は顔色を窺いながら小鳥遊の向かい側の席に着いた。気に障るかもしれないと思ったが、特にそういう素振りも見せなかったのでホッとした。
この陰鬱とした図書室の雰囲気に、病的な程白い彼女の肌が亡霊の様に怪しげに浮かんで見えた。
「君の嫌いな檻の中だけどいいの?」
課題のプリントを埋めつつ問い掛けてみる。
――僕は緊張していた。果たしてこの問い掛けで合っているのだろうか。会話を続ける為に何故ここまで神経質にならなければいけないのか僕にも分からない。
古くて潰れたクッションとニスが剥げた背凭れの間に、冷たい汗と空気が流れる。
「学校が苦手なのは分かるけど、出席日数とか成績とかさ」
出会ったばかりの僕が心配する事ではないのだが、親御さんは了承しているのか、もしかして虐めが原因がなのではないか……とか。
彼女の境遇を想像せずにはいられない。この胸の熱さと共に妙に気になってしまうのだ。
「ま、適当にね」
僕の意図を察したのか否か、小鳥遊はやんわりと口角を上げた。
アイスブレイク……にすらならなかったかもしれないが、遠回りばかりしていると時間が無くなるので僕は恐る恐る本題に入った。
「その……昨日の話、教えて欲しいんだ。君といい、天野さんといい、転校初日から思ってたんだけどクラスの様子がおかしくて……」
「気になる?でも貴方が想像する人達は教えてくれないと思う」
小鳥遊は淡々と言った。
僕を真っ直ぐに見据える、その深い夜の色を湛える瞳に吸い込まれそうな気分になって……。次第に靄がかかっていく思考を払うために緩く頭を振って退屈な課題を進める。
あんな含みのある言い方をされたら、誰だって気になるだろうと思った。
「いや、直接聞いてないけど……。言える雰囲気でも無かったし。何だか皆、怯えてる様な気がして。というより隠しておきたいというか」
嘘偽りの無い言葉を紡ぐ。それを聞いた小鳥遊は、微かな吐息を漏らした。正確に何秒か分からないが、少しの間その双眸を閉じた。
そしてスローモーションの様にゆっくり顔を上げ、頗る真剣な顔で言い放った。
「無理もないと思う。誰だって――死にたくないもの」
パタリと閉じられた分厚い本。
カウンターの壁に掛けられた飾り時計の秒針が、歯車の滑りが悪いのか無理矢理進もうとして不自然なリズムで鳴り続ける。
司書のお爺さんがいる筈なのに、僕達の"秘密の会話"を聞いている筈なのに、彼は何も言わないし微動だにしなかった。
彼女の口から出た予想もしなかった言葉に、僕はただ周囲に意識を巡らせて平静を取り戻す事しか出来なかった。
『もしこの道が死に通ずる悪魔の誘いなら、僕はその囁きを振り払わなければならない。』
あの小説の主人公はどうだった?
意思とは関係無く聞こえる囁きを一度は受け入れた筈だ。受け入れて事情を全て理解したから終わらせる事が出来たのだから。
小鳥遊の瞳を見つめ返しても答えの色は見えない。聞き返したいけどそうしたら"始まってしまう"ような……いや、もう何かが既に始まっているのだ。
僕が認識する為の決定打が小鳥遊の言葉だったというだけで。
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