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僕達のやり取りを聞いていたであろう司書……鷲尾さんが、徐にテーブルに近付いて来た。
「……もうすぐ授業が終わる。鳳君、早く課題を済ませてしまいなさい。小鳥遊君も身の振り方を考えなければ危ないぞ。……この話はもう辞めなさい」
落ち着いた静かな声が僕達を宥めた。経験を感じさせる貫禄のある声色だった。
早く行きなさいと言わんばかりに鷲尾さんは僕達を睨んだ。そして視線をカウンターの後ろへずらす。
促されてカウンターの柱に掛けてある豪華な色褪せた時計を見ると、後十分程で三時限目が終わる時間を指していた。
自分の体内時計では二十分程の感覚でいたのだが、どうやら狂っているらしい。
漸く聞こえた秒針が刻む規則的な音に、僕は急速に怒りが消えていく感覚を覚えた。ゆっくり長く息を吐き高まる心を落ち着かせる。
右ポケットの中でカシャリとケースの中身が擦れ合う音がした。
「……また何かあればいつでも来なさい。さぁ、行った行った」
「……はい」
聞きたい事は山程あったが授業をサボる訳にはいかない。ここは大人しく引き下がる事が賢明だ。
僕は残りのプリントを適当に埋めて席を立った。ギィと椅子が音を鳴らした。筆箱と教科書を脇に抱えて目の前の小鳥遊を見る。
小鳥遊は微動だにせず、空いた椅子をただじっと見つめていた。
これ以上聞いても無駄かな。軽く溜息をついて僕は小鳥遊を背にした。
「ありがとうございました」
鷲尾さんは小さく頷いて「さぁ、間に合わなくなるぞ」と僕を急かした。鷲尾さんがこの町の人間なら今の話を知らない訳が無い。横目で様子を窺っても教えてくれそうには無かった。
頭痛でもするのか、眉間を人差し指で押さえて厳しい顔をしていた。
次は体育だから着替えなければならない。あまり悠長にしている余裕は無いが……名残惜しい。せっかく逃げ回る秘密の端を掴んだ気がしたのに。
でもありがたくも思った。このまま話を続けていれば間違い無く授業どころでは無かったからだ。
それだけは何としても避けたかった。
頭をフル回転させながら図書室のドアに手を掛けた時――、
「……花鳥。死んだのは浅見花鳥――」
小鳥遊は静かに言った。言いたく無さそうに。僕はその言葉に思わず足を止めた。
「……鳳君も気をつけて。呼び声に耳を傾けては駄目。霧に攫われないように――」
冷え切った声、冷え切った空気、冷え切った指先。そのどれもが死を間近に感じさせた。
研ぎ澄まされた神経が、静寂の室内に鳴り響く時計の音を敏感に拾う。……五月蝿い。
「浅見花鳥――」
新生活はいつも不安と共に幕を開ける。勿論それは一般的な不安であって。
その名前が空席だった教卓の前の席だと理解した瞬間から、僕の不安に恐怖の色が混じる。そして逃れられないと悟った。
『……、逃げ、貴方だけでも』
火傷する程の熱を帯びた残像と残響 《ざんきょう》が、今でも鮮明に思い出せる記憶を呼び覚ます。
――駄目だ。これ以上は駄目だ。頭を強く振って死に囚われた思考を平常に切り替える。
今ケースの中身を使う訳にはいかない。
「……深く考えてどうにかなるものではない。痛ましい話は忘れてしまいなさい」
鷲尾さんは聞かなかった事にしろと言わんばかりの低い声で僕に言った。
この話はただの痛ましい話では無い。海流より深い奥底に得体の知れない恐怖の元凶がある。僕は直感的にそう思った。
――死の足音が、すぐ側まで迫ってきている気がした。
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