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「……あぁ、鳳君は知らないわよね。鴨志田先生っていう音楽の先生が去年までいたのよ。今年の春に別の学校に移ってしまったけど」
「へぇ……」
僕の様子を察したのか日向が説明をしてくれた。
「何しろミステリアスな美人センセーだったからなぁ。そりゃあ行きたくなる気持ちも分からんでも無いさ。まぁ、あれは流石に露骨だったけどな」
「……と言うと?」
後ろでスミスミが何か言っているが聞こえないフリをした。
「だってよぉ、油絵のモデルを鴨志田センセーに――」
「ストップ!これ以上は怒るよ?」
スミスミは後ろからマツケンの口を押さえた。この五人の中では一番背が高いマツケンに手を伸ばす為に、爪先立ちで震えながら背伸びしている姿が何とも愛らしい。
そういう趣味は僕には無いが、そういう趣味の女子からウケが良さそうだとぼんやり考えていた。
「ねぇ、早くしないと空が染まるよ――」
緩い空気を一瞬で凍りつかせる冷たい声。やり取りを見ていたのかすら分からない、貼り付けた平面の笑顔で天野が言った。
学校終わりの喧騒に紛れ、遠くの空で鳥の鳴き声が響いている。それは今まで僕が聞いた事の無い音色だった。
鋭い稜線の境には、気が早い夕暮れが顔を覗かせていた――。
***
学校帰りの中学生は冒険家だ。
既に見慣れた蛙の合唱が響く畦道。道端に咲くハルジオンや菜の花が、初夏の風に吹かれて蝋燭の様に揺れているいつもの通学路。
いつもと違うのは一人では無いという事。たったそれだけでより鮮やかな景色を見せてくれるのだ。……柵に疲れては一人で空を見上げる時もあるけど。
町案内と言えど一番面積を占めるのは山と畑だ。駅の方まで行けば普通の施設はあるが、それでも都会の喧騒なんて夢のまた夢。
大きな海流の様に一定方向に進む人混みが鬱陶しくて堪らない僕は、逆に今の状況がありがたい。
「図書館とか行ければいいけど……どうする?僕が美術部の練習用にデッサン集を借りたいというのもあるけど」
「ええ、通り道だし寄りましょう。鳳君は本好きだから真っ先に紹介してあげないと。……いいわよね?」
「モチのロン!」
ぐっと親指を立てて漫画の様にニカッと笑ったマツケン。僕達の最後尾を歩いている天野も異議なしの意思表示として無言で頷いた。
よく図書館に行くらしいスミスミから「期待してもいいかもね」と言われた事を思い出して、僕は少し興奮していた。
東京は本の町で有名な神保町があるから、普通の本屋なら売っていない絶版の本を見つける事も出来て便利だった。
その頃は私立中学だったので電車通学。その通り道に神保町があったから頻繁に寄り道をしていた。その事に関して父さんも特に何も言わなかったし。
何時だったか、蝶の様に翠と蒼の混じった不思議な目の色をした少女と同じ本を探していて譲ってもらった事があったな……。
そう、あれは柔らかな雨の日で――。
「ここよ。ここが朝霧町唯一の図書館、朝霧図書館――」
鋭い日向の声で我に返る。
彼女の掌が示す方向には、長閑な風景の中に似つかわしく無い真新しいドーナツ状の建物があった。
少し黄味がかった温もりのある間接照明、艷やかな木で組まれた白いパラソル付きのテラス。淡いレンガ調のモルタル壁には西洋風の大きな窓が並んでいる。
ドーナツの穴部分から天高く伸びる大木の豊かな葉が、大きな傘の様に広がって建物を包んでいた。
あの木陰で読んだら気持ち良そさそう……ではなくて、あまりに豪奢過ぎて思考回路がショートしかける。
「……ここ図書館なの?」
「驚いた?朝霧町の自慢の施設なんだ。……まぁ、町の景観には合わないかもしれないけど」
クスクスと控え目に笑うスミスミ。本当に図書館なのか……。
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