Chapter 2 「誘引《ゆういん》」

41/44
229人が本棚に入れています
本棚に追加
/311ページ
『――まだ、駄目よ。諦めちゃ、駄目……』  ――チリッ……チリン……。  ガラスの様な透き通った鈴の音の中に、厚い氷を溶かす様な優しくて温かい声が僕の頭に響いてきた。  気のせいでは無い。確かに鈴の音がした。 「誰……?」  夢現(ゆめうつつ)の霞んだ頭で問い掛けてみる。 『聞こえ……なら、本能を委ねて……』  ――チリ、チリリ……。  重い頭の紗幕(しゃまく)の向こう側、小さな柔らかい光が見えた。  気がつけば僕はその紗幕の目の前に立っていた。傷だらけの身体で確かに立っていた。 『……大丈夫、このまま……死なせ……ない』  ――チリン、チリリ……。  その声が僕の脳内に染み渡る。  何故だろう。諦めた筈の暗闇の中、柔らかな風と陽だまりの匂いが僕を通り過ぎた。  僕は何故か声を出す事が出来ず、ただ声がする方を見つめていた。不思議な感覚だ。五感があるのに、第三者視点から見下ろしている自分がいる。 『……まだ、諦めないで。さぁ、貴方の本能を私に預けて――!』  ――チリンッ!  その鈴の音が耳元で鳴った時、僕は紗幕の向こう側へ勢い良く飛び込んだ――。  僕は素早く立ち上がった。痛みを忘れたかの様に機敏な動作で職員室から抜け出す。動かし辛い左足を引き摺る様に、でも確かな足取りで走った。  目指す場所は本能が知っている――。  血の臭いの中に、あの陽だまりの匂いがふわりと鼻腔(びくう)を掠めた。声の主が誰なのか、この鈴の音は何なのか、考える事は出来なかった。  ただ、あの匂いが僕を動かしていた。霞む思考の中、誰かに引っ張られる様に走り続けた。 ***  夜に変わる寸前の、オレンジと紺のコントラスト。空を仰げば待ちわびた疾風が僕の髪を乱した。  誰もいない薄暮の屋上から見える山々は、暗闇に染まっている。    ――チリリ、チリン……。  あの鈴の音はまだ鳴り止まない。でもそれは僕を連れて行く確かな道標(みちしるべ)だった。  寂れた学校の屋上は、一歩進む度に床の錆が剥がれる程のボロだった。同様に錆び付いたフェンスの向こう側には、町を一望(いちぼう)出来る絶景が広がっていた。  こんな状況じゃなきゃ、霧が織り成す幻想的な風景に心安らぐ事が出来るのに。 『――来るよ。大丈夫、信じて』  ――チリ、チリリッ……。  宥める様な優しい声はクリアに聞こえている。この声は僕のすぐ側にいるのではないか。そんな気がした――。  ――ビュウウー!ビュウ!  屋上で(たたず)む僕を、案の定あの音が待ち伏せしていた。逃げ場はない。……不思議と焦燥感が消えていた。
/311ページ

最初のコメントを投稿しよう!