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明け六つ(朝五時頃)の通りに、女の悲鳴が響いた。
大店が並ぶこの界隈は、日の出前から女中が店先を掃き清めるのに余念がない。店の顔である玄関前を清潔に整えることは商売繁盛の基本であり、奉公人達は真っ先に叩き込まれる仕事だ。
「……だ、誰か! 誰か来てーっ!」
ただならぬ叫びに、太陽より早く、あちこちの店から人々が顔を出した。
「お亀代ちゃん、どうしたの?」
まだ夜の香りが仄かに漂う道の真ん中で、腰を抜かしている女中に、隣の店の女中が駆け寄った。
お亀代と呼ばれた女中は真っ青な顔色で、向かいの店先――嵯峨美屋を指差した。
「……あ、あぁ……あれ、嵯峨美屋さんの若旦那が――!」
「えっ?」
震える指をたどった先に人影がある。嵯峨美屋の戸口前にだらしなく足を投げ出して座っているのは、吉右衛門だった。頭を落とし、まるで酔い潰れてへたり込んでいるような姿勢だが、その胸から腹にかけて赤黒い染みがべったりと広がっている。
それが、彼から溢れた血だと気付くのに、さほど要しなかった。
変色した土気色の肌は、粘土細工の人形のようで、強烈な違和感を放っている。
更に、よくよく見ると、白目をむいた驚愕した形相の半開きの口からは、幾筋も流れた血の跡がこびりついていた。
空が白々と明け始めた通りに、再び女達の金切り声が響き渡った。
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朝香太夫の焼死は隠し通した嵯峨美屋だが、流石に当代の主人の死を闇に葬る訳にはいかなかった。
既にお亀代を始めとした近隣の衆目に、無惨な遺体が晒されている。
本来なら指揮を執るべき先代は、息子の死も知らずに眠った切りだ。
弱り果てた番頭の松之助は、駆けつけた町方に洗いざらいを暴露した。
「――するってぇと……なにかい。嵯峨美屋父子は、盲た太夫を土蔵の中に閉じ込めて、なに食わぬ顔して暮らしていたのかい?」
三十路半ばの同心は、呆れたように手下の岡っ引きと顔を見合せた。
「へぇ……お恥ずかしい話です」
松之助は小さくなりながら、店の奥にある客間で二人に茶を出した。
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