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狭くとも他者が潜んでいまいか、隅々まで確認してから、権蔵は菩薩の前に腰を下ろした。
――この世の無情を泣いてなさるか。
盗人に身を落とした我が身だが、自分なりの信心を完全に失った訳ではない。
悔いてはいない。だが、侘しさに切なくなることはある。
金がある時分なら、安宿で女を買うこともあるが、しばらくは懐が寒かった。
明日、コイツを金に代えたら花街にでも繰り出すか――。
諸欲の塊を抱いた風呂敷包を、朽ち割れて口を開いた蓮華座の中に隠す。
その前にゴロリと腕枕で横になる。遠くで明け烏の声がする中、権蔵は浅い眠りに意識を投じた。
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権蔵は、日本橋の近くで生まれ育った。
その界隈は古くからの職人町で、権蔵も早くから父親に弟子入りして錠前職人の道を歩んだ。
元来手先が器用で真面目な質の権蔵は、めきめき腕を上げた。十四になる頃には錠前の構造がすっかり頭に入り、兄弟子がこしらえた錠前を鍵を使わずに解錠するまでになっていた。
若者らしく日焼けした肌にぱっちり二重の眼、意思の強さを表す太い眉、愛嬌のある丸い鼻、やや厚目の唇――決して二枚目ではないものの、権蔵は職場でも長屋でも可愛がられた。
そんな彼には、幼なじみのお香という許嫁がいた。
向かいの長屋に住む飾り職人の長五郎の一人娘で、面長に切れ長の涼しげな目鼻立ちは、母親譲りの器量良しと評判だった。
長五郎は権蔵の職人としての将来を見込んで、半ば強引に娘との縁を結んだが、当人同士も満更ではなかった。両家は権蔵の独り立ちを待って、夫婦にする約束を交わしていた。
ところが、お香が十五になった春――彼女の母親が、美人薄命の倣いに違わず、流行り病で呆気なく露と消えてしまった。
恋女房を失った長五郎は昼夜となく酒に溺れ、手が震えて仕事ができなくなった。
怪しげな賭場に出入りしているという噂が立ち、お決まりのように借金を抱えた。
お香が借金の形に売られていったのは、権蔵が十六になる直前の初夏だった。
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