其ノ一

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 長五郎が荒れ始めた頃、権蔵はお香を(めと)りたいと父親に訴えた。いずれ彼女が女衒(せげん)に売られるのでは、と恐れたからである。  長屋では、身を持ち崩した父親が娘を女郎屋に売り飛ばすことなど珍しくなかった。  貧しくとも庶民は、一生懸命生きている。だがそのすぐ側に日常を飲み込む深淵が口を開けているのだ。  幼い頃からそんな家族を何度も見てきた権蔵は、お香の行く末も手に取るように予測できた。  祝言を挙げてしまえば、お香を救える。  しかし、権蔵の両親は祝言に反対したばかりか、彼の知らぬ間に婚約自体を反古にした。悪い評判の付いた一家と関わりを持てば、やがて面倒に巻き込まれるに違いない。  父親は、勘当をちらつかせ、彼にお香を諦めさせた。 『――元気でね、権蔵さん』  笠で顔を隠した背の高い女衒に手を握られて、十五のお香はもう一方の手を振った。伏せた睫毛が濡れ、愛らしい瞳は茜の色で揺れていた。  権蔵は懸命に手を伸ばした。伸ばして、彼女に届いても――半人前の彼には救う手立てはない。  分かっていても心臓が握り潰されそうに苦しい。  大波に引き離されるかのように、記憶の彼方の恋人の姿は小さくなった。 「ま、待ってくれ……お香ちゃん!」  自分の声で目が覚めた。  薄明かりの中に、武骨な腕が伸びている。  藍色の絣の着物から生えた浅黒い肌。  権蔵は、ノロノロと自分の右腕を下ろした。  ――また、あの時の夢か。  煤けた灰色の光に、漆喰の禿げた白壁が浮かぶ。  お堂の埃っぽい床板の上で、権蔵はゴロリと寝返りを打った。フワリと舞う塵に顔をしかめると、諦めて身を起こす。  菩薩が変わらずに慈悲深い眼差しで、彼を見下ろしている。 「菩薩さん……おめぇの仕業かい?」  やれやれ、随分青臭い後悔を引き出してくれやがる。  権蔵は恨めしげな薄ら笑いを菩薩に投げた。  あれからいくつ夏を迎えたか――権蔵は、すでに青年の域を出る歳だ。  初恋の女は抱き損ねたが、酸いも甘いも……多くの肌を味わった。  それでも――満たされた想いは一瞬で、目覚めれば虚しさだけが心を占めるのだ。 「アイツを金に代えるとするか……」  権蔵は立ち上がり、身体を伸ばした。  破れ障子の隙間から初夏の暑気がジワジワ這い寄ってきている。今日も渇きそうな気配だ。
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