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「へぇ。先達て、辰の親分の盆で大変お世話になりやして……お礼方々、ご挨拶に伺った次第でございやす」
「ち――ちょいと……お待ちくだせえ」
『辰次郎の賭場で世話になった』とくれば、ただならぬ縁のはずだ。
木戸の向こうの声は、明らかに動揺した。
ややしばらく待たされた挙げ句、カタカタと閂を外す音がして――勝手口が開かれた。
扉の向こうには、四十半ばの小柄な男が、探るような眼差しで立っていた。
「手前は番頭の松之助と申します。どうぞ、お入りくだせぇ」
権蔵は頭を下げて、勝手口をくぐる。背後で素早く木戸が閉じられた。
店先を通らず、裏口から屋敷に上げられた。短い廊下の突き当たり、母屋の端の部屋に案内される。
「只今、旦那様がお見えになります」
「すいやせん」
室内に入ると、急備えの火鉢が中央に置かれている他は、隅に行灯があるだけだ。普段使われていないことがありありと分かる、殺風景な六畳間。
嵯峨美屋の荒廃振りをある程度予想していた権蔵だが、独り切りになると溜め息が漏れた。屋敷内には人の気配がなく、通ってきた廊下や障子の桟には、白く埃が積もっていた。
行き届かない掃除――それは働き手が不足していることを意味している。それだけ暇請いした者が多いのだろう。
「入りますよ」
男にしては高い声がして、すっと障子が開いた。
五尺を少し越えたくらいの細身の中年が現れた。番頭とほとんど同じくらいの年齢だろうが、えらの張った頬が痩け、髪に白いものが目立つ。太い眉の下の目はやや小さく、団子鼻の左下に大きめの黒子がある。表情に覇気がないせいか、本来の人相を知らずとも、最近やつれたことが見て取れる。
「貴方が吉右衛門さん――ですね?」
火鉢を挟んで正面に腰を下ろした吉右衛門は、見知らぬ男を驚き顔で凝視した。
松之助の話では、訪問者は自分を知っている様子ではなかったか?
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