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「……はぁ。アンタさんは、一体……?」
「あっしは、権蔵と申しやす。番頭さんには、貴方様に世話になったと伝えやしたが、それはお目にかかるための方便でして。本当に世話になったのは、お父上の善右衛門さんでやす」
「父が……?」
「へぇ。あれは、今から五年前の冬でやした。お恥ずかしい話、あっしは花街という所に憧れてやしてね……人伝に聞いていた道中ってぇもんをどうにか見てえもんだと足を運びやした。そしたら、初めて拝んだ天女みてぇな太夫に、いっぺんで惚れちまいやして」
「あぁ……」
てらいもなく語り始めた権蔵に対する構えが薄れたのか、吉右衛門は気の抜けた声をあげた。
物見遊山で花街に足を踏み込んだ初な素人が、道中の太夫に一目惚れしてしまうなんてことは、ごくありふれた話だ。
「どうしても会いてぇと揚屋の暖簾をくぐったまでは良かったんですが……」
「一見とは会わない仕来たりだろう」
話が当分続きそうな気配に、吉右衛門は正座を崩した。
「へぇ、仰る通りで。大枚叩いて頼んだものの、箸にも棒にも掛からねぇ」
権蔵は、大袈裟に肩を落してみせる。
「最低三度は通え、ってぇんで、こしらえた細工物を片っ端から金子に変えて、何とか二回目に漕ぎ着けやした」
火鉢にあたりながら吉右衛門は鼻を鳴らした。親父も相当な道楽者だが、この男も劣らずの色狂いか。
「……終えにゃあ、原料の鼈甲を質に流しやした。それで三回目の金子を懐に、喜び勇んで大門をくぐったんですがね」
そこで、一息付く。冷えてきた手を火鉢にかざして、権蔵は声を落とす。
「運悪く――いや、あっしに油断もあったんでしょうな、悪党に胴巻きをごっそりすられやしてねぇ」
「……やれやれ」
父親の道楽で懲りているため、吉右衛門は女遊びには手厳しい。権蔵の話にも、まるで同情の素振りはなかった。
「太夫はおろか、その金子がなけりゃあ、明日の飯さえままならねぇ。あっしは大門の側で泣いておりやした」
――パチン。
合いの手よろしく、火鉢の中で炭が小さくはぜた。
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