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その姿を塀の陰から見送ると、権蔵は嵯峨美屋の裏手に回る。
爪痕のような細い月さえもはや無く、澄んだ空には星明りだけが瞬いている。
ふぅ、と付いた息が微かに白い。権蔵は両手に息をかけると、嵯峨美屋の塀を乗り越えた。
足音を消して崩れた土蔵跡に行き、いつものように両手を合わせる。
「――権蔵さん」
吐いた息より確かに白い煙が集まり、白猫姿のレンになる。
「お前……その姿は」
「ふふ。もうお役目は終えましたから。朝香様の形をお借りすることもないでしょう?」
レンを通じて、幻でも愛しい女の姿に会える喜びがあった権蔵は、内心嘆息した。しかし、そんな心情を見透かしたように、レンは金色の瞳をキラリと光らせた。
「吉右衛門が出かけましたね」
いつも腰掛ける、お決まりの瓦礫に腰を下ろすと、隣の大石にレンも鎮座した。
「ああ。どっちに転んでも、辰次郎親分のことだ。生きて帰ぇしやしめぇ」
「ふふ……見てましたよ。役者でしたねぇ」
「てやんでぇ。俺ァな、アイツに会うためなら、鬼にでも夜叉にでもなるぜ」
照れ隠しに言い捨てた権蔵を見て、レンはゴロゴロと喉を鳴らさんばかりに目を細めた。
「それよか、お前の首尾はどうなんでぇ」
善右衛門を脅すよう指示した張本人としては、気がかりなところだ。
「それがですねぇ……アタシ、ちょっとやり過ぎちゃったみたいなんです」
白猫は弱ったように、少し身体を縮めてみせる。
そして、潰された善右衛門が未だ目覚めぬことを告げた。
「……へっ、構わねぇさ。目覚めた時にゃ、取り返しが付くめぇ。後の祭りってこった」
ニヤリと口元を歪めた権蔵は、手を伸ばしてレンの頭を優しく撫でた。
堪らず「ニィ」と喜声が漏れる。
「ありがとう、権蔵さん」
ピン、と姿勢を正し、金色の双眸が真っ直ぐに見つめ返す。
「アタシ独りじゃ、こんな芸当できやしなかった。こんな――小気味のいいことはありません」
お香を想って、もののけに身を堕した小さな魂がいじらしい。
権蔵は両手を伸ばして、レンをそっと膝上に招いた。一瞬、戸惑った後、彼女は柔らかな姿態を権蔵の腿の上に預ける。
実体を持たない白猫は、体温も体重も感じないが、存在を確かに伝えてくる。
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