其ノ十五

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 名を叫びながら駆け出していた。  草履ごしに伝わる砂利の凹凸に足を取られるも、必死で、無我夢中で、走って行く。  あちらからは、お香も着物の裾をたくすようにしながら駆けてくる。 「危ねぇ……っ!」  彼女が躓いてグラリと身が傾いた瞬間、権蔵は細い腰に腕を回し、もう片手で彼女の肩を掴んで、抱き止めた。 「……怪我ねぇか、お香?」 「権蔵さん! 本当に……?」  彼女の白い手が権蔵の頬に触れる。切れ長の瞳は、しっかりと彼を捉えているが、表情が固い。 「お香、お前、目が」  彼女の表情がやや弛む。 「ええ、こっちに来てから見えるようになったの」 「そうか、良かったなあ」  権蔵は単純に喜んだ。しかし、腕の中の彼女は悲しげに眉を寄せる。 「それより、どうして、ここに?」 「お前に会いたくて、レンに連れて来て貰ったんだ」  はにかむ権蔵と対照的に、お香の瞳が強張った。 「ここは、生者が来る場所ではないわ」  安心させるように彼女の額に唇を当て、権蔵は晴れやかに破顔した。 「お前を失って生き長らえることに、意味はねぇ。お香と一緒にいられるのなら、この世の命なんか惜しくねぇよ」  澄んだ黒曜石のような瞳が潤む。ポロポロと涙が溢れた。 「……あたしの未練が、あんたを殺してしまったのね」 「てやんでぇ。お前に取り殺されるなら本望だ。お香――会いたかった」  権蔵の着物をすがりつくように握りしめたまま、彼女は泣き続ける。その存在を確かめるように抱き締めていた権蔵だが、やがて少しだけ身体を離すと、彼女の唇を求めた。  記憶に違わぬ柔らかな唇は甘く、このまま永久に固まってしまっても構わないと感じた。吐息も鼓動も浮かされたように熱い肌も、何もかもが溶け合って一つになったようだった。 「不思議ね――生きていた頃に失ったものを、死んで全部取り戻せるなんて」  権蔵の肩に頬を預けて、お香はしみじみと呟いた。 「もう独りにしねぇ。黄泉でも地獄でも、お前を離さねぇからな」 「嬉しい……あたしも離れない」  どちらからとなく顔を寄せ、唇が重なる。至福、というものがあるのなら、これがそうなのかもしれない。とろけるような温もりが身体中に広がって行く。
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