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悲しい顔をしているであろう、今の自分を見られてはいけない。たった一人の親なのに、子供を不安にさせてはならない。だから私はじっと菜々の体を抱きしめ続けた。
菜々はまだ疑問を持たない。
何故お父さんは、ある日を境に私たちと離れて暮らすようになったのか。
何故お母さんは、ある日を境に昼も夜も働きに出るようになったのか。何故うちが本も満足に買えないくらいに貧乏になったのか。
その〝何故〟はすぐにでも感じるようになるだろう。
子供は周りの人と自分との違いに敏感だ。すぐに彼女は自分の置かれた状況を不思議に思うようになる。私はそれがとても怖い。
何故、と言われてもうまく答えられる自信もないし、解決策も見当たらないのだから。
「……ママ」
菜々が呟いた瞬間、不意に風が吹いた。
思わず顔を上げると、視界は桃色に包まれていた。
桜の木がざわめき、一斉に花びらを落とす。もうほとんど散ってしまったと思っていたが、花びらはまだ思いのほか若葉の奥に残っていたようだ。それはほんの一瞬のできごとだった。
私は言葉もなくその光景を見つめる。
風が止み、また辺りに静寂が戻ると、目の前は美しい桃色に染まっていた。
それは、春の花を勉強し始めた我が子にいつか見せてあげたいと思っていた景色だった。
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