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傘、一本
春、彼が私のチームに配属された。
彼は数年前「高校野球の県大会で準優勝したチームのキャッチャーが入社したらしいよ。」と若手女性社員が注目していた当人だった。
澄んだ瞳が印象的で、野球やけした肌と短く刈った髪、大きな背中の魅力的な男だった。
チーフになっていた私は、顧客対応のマニュアル作りの仕事を任せた。
フットワークもよく、固定観念に凝り固まっていた自分には思いもつかない対応策を次々ねじ込んでくる。
その度に、自信満々な顔で起案書を差し出しニンマリ笑う。
彼は8つも年下だったが、私はたちまち、その笑顔の虜になった。
デパートの化粧品売り場でオレンジ系の口紅を買い、髪を束ねるのを止めた。
梅雨の雨が小休止の夜、チームで取り組んでいた顧客情報のデータベース化が一段落した打ち上げに数人のスタッフとビアホールへ繰り出した。
夏の仕事終わり、ビルの屋上で風にさらされ飲むビールが、私は好きだ。
ジョッキのビールがぬるくならないうちに、潔く杯を空ける。
斜め向かいに座っている彼が、先週末の野球大会で、二日酔いのままキャッチャーの面をかぶり、危うく吐きそうになったと笑っている。
気分は上々。いいなあ、その顔。
ちらりと時計に目をやる。
次に行きたい気持ちは山々だが、夫に預けた子供も気になる。
今宵はこれまで。
あと、5年若ければ・・
カラオケ組と別れて駅に向かう。
雨が降りだした。
ふと真後ろから
「駅行くんですよね。一緒に帰りましょう。」
と彼の声。
「二次会行かないの?」
「僕、カラオケ苦手だから。駅だったら、公園突っ切って行きましょう。近道だから。」
そういうと私を追い越し、先をスタスタ歩いていく。
思いがけない状況に動揺しつつ、小走りで追い付く。
思った以上に歩幅が大きい。
もっとゆっくり歩いてほしいんだけど・・
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