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第一話
『猫刑事』が僕の暮らすアパートのチャイムを鳴らした時。
僕はまさに三十年余りに及ぶ自らのしがなき人生において、一番強烈な絶望の只中にいた。
去る人は去り。
壊れるモノは壊れ。
入り組んでいた幾つかの問題はその複雑さをより複雑にして僕の行く手に立ちふさがっていた。
予期せぬ突然の豪雨のように、短期間かつ一所(ひとところ)に悪いことが集中した。
そんな壮大な負の連鎖の冷たい輪の中で、僕は嘆く余裕も涙一つ流す気力もない程に全身を濡れそぼらして疲れ果てていた。
おまけに今は秋の一番奥深く。
そこは人を侘しくさせるためだけに特別に拵えられたような季節だった。
だからそれは誰かが僕の心の隙間にスルリと入り込もうとするにはこれ以上ない位絶妙なタイミングだった。
噂通り、あるいは名前の通り。
猫刑事はそういった好機を的確に捉えることのできる優れた鼻を有し、しなやかな体躯でもって僕の日常へと難なく滑り込んできた。
「猫刑事と申します」
と猫刑事は言った。
「……はい」
「カシワギ・タケシ様御本人でお間違いございませんね?」
「ええ、僕が柏木たけしです」
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