事件

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「いいじゃないですか、坂本先生」  穏やかな声とともに、後ろからゆっくりと足音が近付いてくる。 「及川先生」  反射する眼鏡のレンズの向こうで、優しい眼差しが私を捉える。 「やらせてあげたらいいと思いますよ。彼らがこんなに必死でお願いしているんですから」 「……はあ」 「それに、この子たちの作品だ。この子たちに直す権利はあるはずです。私たちがその権利を奪ってはダメでしょう」 「でも、会議で決まったことですし……」  坂本先生が言葉を詰まらせる。先程までの勢いはなかった。年長者の及川先生には頭が上がらないといった様子だ。 「管理職なら私が説得しましょう。審査員長の権限で」  その言葉に坂本先生が苦い顔をする。 「ありがとうございます」  及川先生に向かって再び頭を下げる。 「佐倉くんの提案通りに、あくまでも中止の判断を遅らせるだけです。一ノ瀬さん」  先生は穏やかな声で私の名前を呼ぶと、机上に置かれた写真に目線を落とす。 「40年近く美術の教員をやってきた僕の立場から見ても、これを短期間で元通りの綺麗な状態に直すのは不可能(・・・)と判断するのが妥当です。だから……無理だと思ったら、いつだってやめてもいいと思います」  表情や声色を一切変えないまま発した及川先生の言葉は、冷静で優しくて――でも、同時に恐ろしいくらいに残酷な言葉だと思った。
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